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更新日:令和4(2022)年12月28日
ページ番号:548639
ちば文化資産の追加候補(投票候補)をご紹介します。
【九十九里エリア】
No.43 大原幽学旧宅|No.44 玉﨑神社|No.45 日吉神社|No.46 八重垣神社祇園祭|No.47 浪切不動尊(成東山 不動院 長勝寺)|No.48 ぼさま踊り
【南房総エリア】
No.49 里見氏城跡 稲村城跡・館山城跡|No.50 安房国一宮 洲崎神社|No.51 洲埼灯台|No.52 館山城・城山公園と館山湾|No.53 千葉県立安房南高等学校旧第一校舎|No.54 那古寺|No.55 ナマダ干しの風景|No.56 槙(マキ)の小道、生垣|No.57 勝浦大漁まつり|No.58 遠見岬神社|No.59 吉保八幡のやぶさめ|No.60 岡本桟橋(原岡桟橋)|No.61 白間津のオオマチ(大祭)|No.62 富山と南総里見八犬伝|No.63 野島埼灯台|No.64 抱湖園(元朝桜)|No.65 房総のめがね橋(眺尾橋)と作家・林芙美子の「房州白濱海岸」|No.66 菱川師宣記念館|No.67 捕鯨|No.68 後藤 義光(彫刻)
【かずさ・臨海エリア】
No.69 木更津中島の梵天立て|No.70 馬来田国の首長墓 金鈴塚古墳と副葬品|No.71 養老川流域田淵の地磁気逆転地層(チバニアン)|No.72 神馬(おめし)|No.73 鹿野山神野寺|No.74 久留里城|No.75 吾妻神社の馬だし祭り|No.76 須恵国の首長墓群 内裏塚古墳群|No.77 房総半島南部の大貝塚 山野貝塚
【広域(各エリアにまたがるもの)】
No.78 参勤の道 ご利益の道・成田街道(佐倉道)と沿道歴史文化遺産|No.79 東金御成街道|No.80 両総用水施設と十枝の森|No.81 手賀沼周辺の公園群|No.82 印旛沼龍神伝説を伝える三寺(龍角寺、龍腹寺、龍尾寺)|No.83 東京湾や沿岸に残る戦跡|No.84 松澤熊野神社式年神幸祭|No.85 サーフィンの聖地外房|No.86 サンブスギ|No.87 落花生味噌
幕末の農村指導者である大原幽学は世界初の農業協同組合「先祖株組合」をつくった人物です。自らの学問を提唱し遊歴していた幽学が、この地の門人たちにより提供され住居としたもので、旧宅のほかにも耕地整理を行った水田やゆかりの地は遺跡史跡公園となっています。
提供:旭市 |
中世には龍王崎の地にありましたが、積年の海蝕を避けるほか、天文2年(1533年)には兵火に遭い、西北西の現在地に遷座したと伝えられています。
本殿は一間社流造で、中世末期の様式とともに江戸時代の様式をあわせもちます。
拝殿は5間×3間の入母屋造です。阿吽の唐獅子や、飛龍の籠彫りをはじめとする彫刻は、石田丹治栄貞や岡佐内耕浚ら、江戸時代末期、当地が生んだ名工たちの力作です。
提供:旭市 |
日吉神社は東金に古くから鎮座する神社のひとつです。江戸時代初期の改築と伝わる本殿や、徳川家康が植樹させたという表参道の杉並木、神使であるサルの石像等があります。
また、2年に一度、日吉神社連合祭典と呼ばれる祭礼が行われます。江戸時代から行われている祭礼で、9地区の山車・屋台が市内を練り歩きます。日吉神社の神輿と9地区の山車・屋台が一堂に会する瞬間は圧巻です。
提供:東金市 |
八重垣神社祇園祭は、毎年8月4日・5日に行われる市最大のお祭りで、神輿の行列に冷水を浴びせかけるのが特徴です。4日には全国でも珍しい「女神輿」が、5日には10町内から集まった20基ほどの神輿と囃子連が延々と連なって市街を練り歩きます。
提供:匝瑳市 |
成東下町の標高30メートルの小丘「石塚山」(石塚の森)の中腹の岩石に、成東山不動院長勝寺本堂が建てられています。入母屋造りの瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらせた、朱塗りの懸崖造りのお堂です。寺伝の縁起書によれば、不動尊本尊の由来は、天平年間に行基が不動尊本像を刻んだことと伝えられていますが、当本堂の創建年代は不明とされています。なお、元和4年(1618年)の改築という棟札があったといわれています。
提供:山武市 |
農作業の動きを基本とした労作歌で、数人が輪になって廻りながら麦をたたく動作を応用した盆踊りです。大網白里市内の沿岸地域の南今泉や四天木では、盆が近づいてくると、若者が砂浜に集まり、仲間同士5、6人が輪を作り「ぼさま」を唄いながら踊り始め、やがて10数人を中心とした踊りの輪が、砂浜一面に繰り広げられました。現在は白里郷土芸能保存会が継承しているだけでなく、夏祭りや地域の幼稚園・小学校の行事などで多くの方が踊っています。
提供:大網白里市 |
戦国時代から江戸時代まで10代170年にわたり房総半島を支配した里見氏の城跡です。稲村城は前期里見氏が安房平定をしたころの城で、国衙や国府湊などの安房中心部をおさえた水陸交通の要地です。館山城は里見氏最後の当主である忠義が倉吉へ移るまでの居城で、鷹ノ島湊を中心に整備された城下町が現在の館山市の元となりました。稲村城跡は国の史跡、館山城跡は市の史跡に指定されています。
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洲崎神社は、東京湾の出入り口を見下ろす場所であることから古来、漁業神・航行神でした。社殿は標高110メートルの御手洗山の中腹、潮風を受けた自然林に囲まれ、148段の急こう配の石段を登ったところに鎮座しています。
例祭では、「ミノコオドリ」が奉納され、傾斜30度の石段を御神輿がもみながら降りる「御浜出」はとても迫力があります。なお、「ミノコオドリ」は基本的に小中学生の少女が踊り手となり、太鼓と歌にあわせて輪になって踊る千葉県指定民俗文化財です。
また境内からは太平洋を一望できるほか、浜鳥居から富士山を眺めることもできます。
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千葉県最西端の洲崎にある高さ15mの灯台。大正8年(1919年)に点灯し、東京湾の入り口を示す灯台として、航行する船舶の安全を支えています。展望台からの景色は絶景で、富士山や伊豆大島などを眺めることができます。
提供:館山市 |
館山城は、里見氏9代義康が本城とした城で、里見義頼によって築城されました。南総里見八犬伝の舞台としても知られています。慶長19年(1614年)に館山藩は取り潰しとなり、廃城となりましたが、昭和57年(1982年)に模擬天守が建設され、現在は内部が八犬伝博物館になっています。館山湾や館山市内を一望できる山頂にあり、山全体が城山公園として、サクラや紅葉の名所となっているほか、公園内には館山市立博物館があります。館山城からは、館山の街並みと館山湾を見渡せ、遠くは富士山や三浦半島も望むことができます。
また、館山湾は鏡のように波静かなところから別名「鏡ヶ浦」とも呼ばれています。館山湾に沈む夕日は「日本の夕陽百選」にも選ばれ、ヤシの木が並んだ海岸からは、海越しに富士山を望む夕日が見られます。また5月と7月には運が良ければ海越しの富士山に夕日が沈むダイヤモンド富士を見ることもできます。
提供:(C)大和印刷 |
千葉県立安房南高等学校旧第一校舎は、昭和5年(1930年)に関東大震災の教訓をもとに日本の木造建築と西洋建築の要素を融合させ、さらに新しい建築技術を背景に建てられました。
左右対称に大きく羽根を広げたようなデザインや階段の欄干、外壁のレリーフ、玄関脇の窓など随所に装飾が施されています。平成7年(1995年)に県指定有形文化財(建造物)に指定されています。
提供:千葉県教育委員会 |
那古寺は安房地方を代表する観音信仰の霊場として、古来より多くの人々の信仰を集めました。坂東三十三観音巡礼札所の結願寺として、安房国札三十四観音霊場の第一番札所としても知られています。また、戦国武将里見氏など地域の有力者から庇護を受けてきました。境内には国重要文化財の銅造千手観音立像や県指定の那古寺観音堂、那古寺多宝塔、木造阿弥陀如来坐像、繍字法華経普門品など多くの文化財が残されています。
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ナマダを開いて干す風景は、冬の風物詩となっており、ナマダ干しは郷土食として親しまれています。
ウツボのことを「ナマダ」といい、ナマダ漁は館山市内相浜地区で脂が一番のっている11月末から12月に行われます。
獲れたナマダは頭を落として背開きにし、ナライ(北風)が吹く時期に1日天日に干します。
海からの強い風や潮を防ぎ、火災の延焼も防ぐために槇(イヌマキ)の生垣で屋敷の周囲を囲んだ集落景観です。生垣に使われるイヌマキは、南房総の温暖な気候に適した常緑針葉樹で、細かな葉が密集するため、防風・潮、防火の効果が高く、その生垣は海岸部の集落にとっては欠くことのできないものです。
提供:千葉県教育委員会 |
例年9月に4日間行われる漁師町・勝浦のお祭りです。初日は各地区の神輿や屋台が練り歩き、2日目は、各地区の神輿が一堂に会し、一斉担ぎが見られる合同祭典が行われます。3日目は、江戸時代後期の山車・屋台の引き回し、最終日は勝浦漁港で船から船へと神輿を渡す「神輿の船渡し」などが催されます。
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房総半島に技術と文化をもたらした天冨命を祀る神社です。創建は非常に古く、承和2年(835年)には社殿を改修した記録が残されています。創建した勝占忌部の名は、勝浦の地名の由来となったと伝えられています。
参道に朱の灯籠が45基設置されており、毎晩明かりが灯されます。境内の高台からは勝浦の町並みと海が一望できます。毎年9月の例祭では、神輿と江戸の名工達による彫刻に彩られた祭屋台が曳き廻され、また「かつうらビッグひな祭り」の会場にもなっています。
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毎年9月の最終日曜日に催される吉尾地区の八幡神社の祭礼・神事。
もともとの起源ははっきりしませんが、社伝によれば、鎌倉時代中期までさかのぼるといわれています。
約210メートルの馬場を疾駆しながら、3つの的めがけて矢を放ち、それを3回繰り返します。他で行われているやぶさめと異なる特徴としては、的までの距離が遠い点が挙げられます。
これは、武芸としてよりも、五穀豊穣を祈願し農作物の収穫の豊凶を占うことを第一の目的として行われて来たためです。的に当てることよりも、放った矢の当たり外れによって、ご託宣がもたらされると考えられているため、的から外れることにも重要な意味があります。昭和40年(1965年)に県指定無形民俗文化財に指定されています。
提供:鴨川市 |
原岡海岸~多田良北浜海岸間にある岡本桟橋は、全国でも数少ない木製の桟橋。ロケ地としても人気で、レトロな風景はフォトジェニックなスポットとしてたくさんの人が訪れます。天気がいい日には海の向こうに富士山が見えます。
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南房総市千倉町の白間津地区で、4年に1度、7月下旬の3日間にわたって行われる祭礼行事。当地の氏神である日枝神社の祭礼にともなうもので、神社の神輿による浜降り神事と、大きな幟を競って曳くオオナワタシと呼ぶ行事、それにササラ踊り(全12曲)を中心とする民俗芸能の3つの要素からなるものです。祭りの中心的存在に仲立ち(日天・月天)と称する少年2名による神役がいますが、彼らは長期にわたる厳格な物忌みを経たうえで、祭りをあずかります。
提供:南房総市 |
房総丘陵の山の一つであり、「南総里見八犬伝」ゆかりの地。展望と歴史のロマンに包まれた山として知られています。また、「南総里見八犬伝」は、江戸時代の戯作家曲亭馬琴による全106冊の長編小説です。戦国時代の里見氏の歴史を背景に、里見氏の娘伏姫から霊玉を授かった八犬士の活躍を描いた物語です。
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房総半島の最南端にある高さ29mの灯台。招へいされたフランス人技師のF・L・ヴェルニーのもと設計・施工され、明治2年(1869年)に点灯しましたが、関東大震災で倒壊したため、現在の姿は大正14年(1925年)に再建されたものです。
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南房総市和田町は、全国的にも有名な花の産地で、その昔、間宮七郎平という薬剤師が旧和田町に住んでおり、安房で初めて花づくりに成功しました。七郎平は、次に山を切り開き、花木を植えることを思い立ち、自ら鍬を持って花園の裏山の堰の周りを開墾し、「抱湖園」と名付けて花木を植えました。
提供:南房総市 |
めがね橋(眺尾橋(正式名称:長尾橋))は、南房総市白浜町の長尾川に架設されています。石積み工法の洋式三重橋で、川辺に映るその姿がめがねに似ているところから「めがね橋」と呼ばれています。明治21年(1888年)3月に地元の寄付で造られました。林芙美子の紀行文「房州白濱海岸」に登場します。土木学会選奨土木遺産(平成17年(2005年))。
提供:南房総市 |
菱川師宣は、浮世絵の祖として江戸時代に活躍した絵師であり、「見返り美人図」の作者として有名です。
生誕の地 鋸南町にある菱川師宣記念館は、昭和60年(1985年)開館の公立浮世絵美術館で、郷土の偉人・菱川師宣と浮世絵について紹介する施設です。菱川師宣の生い立ちから、江戸での活躍、江戸美術界に与えた影響など、師宣の作品を通して紹介するとともに、そこに描かれた浮世を謳歌する江戸の人々の姿を通して、浮世絵の誕生にせまります。
また、師宣以降の浮世絵師たちの作品を多数展示し、その後の江戸庶民芸術・浮世絵の歴史や、浮世絵に見る江戸の庶民風俗を紹介しているほか、年に数回企画展・特別展を開催しています。
提供:鋸南町 |
南房総地域(鋸南町勝山)では江戸時代から捕鯨が行われていました。南房総市和田町には日本で四カ所しかない捕鯨基地があり、くじらが房総半島に近づく6月から9月に捕鯨を行います。捕獲された鯨の解体の様子は見学でき、早朝にも関わらず観光客にも人気です。解体された鯨はクジラのタレや竜田揚げなど様々なくじら料理で楽しまれるているほか、捨てるところなく全てが利用されています。
提供:南房総市 |
初代後藤利兵衛橘義光は、江戸時代末期から明治期の宮彫り師です。
籠掘り技法を得意とし、安房地方の寺社や各地の山車・神輿に龍の彫刻を多く残しています。
また、数多くの作品を残しながら弟子の育成にも心を砕き、一門からは多くの腕の良い彫り物師を輩出しました。
提供:館山市 |
年始の海へ若者たちが梵天を持って入り、どれだけ遠くに建てられるかを競って、五穀豊穣や浜大漁などを祈ります。江戸時代から続く民俗行事です。国記録選択無形民俗文化財。
提供:木更津市 |
祇園・長須賀古墳群に属する墳丘長約90mの前方後円墳です。6世紀末から7世紀初頭の築造とみられ、被葬者は馬来田国造の系譜と考えられています。過去の発掘調査により、名称の由来となった金鈴をはじめ、多くの金銅製の副葬品が出土しており、その出土品及び石棺は、国の重要文化財に指定されています。木更津市郷土博物館金のすずで資料が展示されています。
提供:木更津市 |
約77万年前に地球で起きた最後の地磁気逆転の痕跡を連続して捉えることのできる極めて貴重な地層であることから、平成30年(2018年)に国指定天然記念物に指定されました。また令和2年(2020年)、国際地質科学連合により国際境界模式地(GSSP)に認定され、地質年代「チバニアン」が誕生しました。このことを記念して令和4年(2022年)には地層に、GSSPの指標であるゴールデンスパイクを設置しました。
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例年7月22日前後に行われる人見神社の神事。神主に選ばれた神馬を伴い石段を上り、頂上の境内を目指します。この神事は、村々の大漁と豊作を祈って受け継がれてきたものです。社殿内を滞りなく回り終えた年は豊作になると言われています。
提供:千葉県君津市 |
鹿野山山上の熊野峰に位置し、境内には国指定重要文化財の表門や県指定有形文化財の本堂などを有する規模を誇ります。
寺伝によれば、聖徳太子によって鹿野山と名付けられ、開山されたと伝えられています。天正19年(1591年)徳川家康公の台命により佐貫城主内藤家長が伽藍僧坊を造営して以来、薬師如来の霊場として栄えています。
提供:千葉県君津市 |
君津市の山間部、久留里にある久留里城は別名「雨城」(うじょう)の伝説をもち、戦国時代には里見氏、江戸時代には土屋氏・黒田氏の居城として明治維新まで続きました。
現在、本丸跡には天守閣が建てられ、二の丸跡の資料館では、城と郷土の歴史に関する資料を紹介しています。久留里の城下周辺は、伝統的井戸掘り技術「上総掘り」によって掘られた井戸があることでも知られ、その水は県内で唯一の「平成の名水百選」に選ばれています。
提供:千葉県君津市 |
馬の両脇に二人の青年がしがみついて海岸を疾走する勇壮な神事です。9月の敬老の日前の日曜日に行われます。吾妻神社は日本武尊の身代わりに入水した弟橘媛を祭る神社で、媛の遺品の櫛を馬がくわえて神社に運んだという伝説に因むものです。平成29年(2017年)に県指定無形民俗文化財に指定されました。
提供:富津市 |
5世紀から7世紀にかけての古墳群で、須恵国の首長の墓群と考えられています。内裏塚古墳は南関東で1番大きく国指定史跡になっており、前方後円墳や方墳等、現在49基が確認されています。
提供:富津市 |
縄文時代後期~晩期(今から4,000年前~2,300年前)にかけて連綿と営まれた貝塚です。保存状態が良く、縄文時代の風景を伝える遺跡として、平成29年(2017年)10月、国史跡に指定されました。
提供:袖ケ浦市 |
江戸から佐倉城下を経て成田山新勝寺に向かう成田街道は、江戸時代の初め、上総や下総の大名が参勤交代で通行した道です。江戸時代中期になると、江戸庶民の間で成田山詣が盛んになり、御利益を求めて多くの人々が往来しました。なお、江戸幕府での正式名称は佐倉道でしたが、成田山参詣が盛んになると成田道と呼ばれるようになりました。
宿場が整備され、街道沿いには現在も七代目市川団十郎が立てた井野の道標をはじめ常夜燈、石仏、石碑、道路元標などの近世・近代の石造物を目にすることができます。
また、市川関所跡・中山法華経寺・船橋大神宮・長妙寺・加賀清水・臼井城跡・酒々井土蔵造りの街並みや、沿道の村人たちの民間信仰の証である馬頭観音・庚申塔などが点在しています。
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東金御成街道は、徳川家康の命で造成された道です。慶長19年(1614年)、家康の命を受けた土井利勝により、船橋から東金を結ぶ道として造成されました。徳川家康が東金へ鷹狩りに出かけるために作られた街道で、船橋から東金間約37キロを周囲の村97ヶ村の農民を総動員し、短期間で造成されたため、三日三晩で造ったともいわれています。
現在も往時の姿を止めた箇所がみられ、その一部といわれている東金市の山王坂は、S字状切通しの急坂で、坂の途中には道祖神の祠や小さな権現滝があり、古道の風情が漂います。
また、街道沿いには、一里塚や将軍が滞在した御殿跡、徳川家にまつわる社寺や伝承等が各地に残されています。
(山王坂) 提供:東金市 |
両総用水施設は、下総と上総をつなぐ水の道。昭和18年(1943年)より23年の歳月をかけ完成した、利根川から栗山川を経由し一宮川まで届く総延長78kmに及ぶ日本でも有数の農業水利施設です。平成5年(1993年)度から平成26年(2014年)度に実施した国営の施設更新事業によりパイプライン化及び2路線化しています。
このうち、東金市にある「両総東金支線円筒分水」は、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設で、農繁期にあたる5~8月頃は水量が多く見ごたえがあります。
また、大網白里市にある「十枝の森」は、両総用水を完成させた十枝雄三氏の住宅跡です。敷地内にはこの十枝雄三氏の功労を顕彰するために建立された碑があるほか、約30種類、数百本の樹木が大きく枝を広げています。毎年、11月下旬から12月上旬には紅葉の見頃を迎え、近隣住民から親しまれています。
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手賀沼の両岸に公園・緑地帯が連続し、手賀沼の風情を描き出しています。岸辺の桜並木がすばらしく、鳥の博物館もあるなど、市民の憩いの場となっており、休日は大勢の親子で賑わっています。
提供:(公社)千葉県観光物産協会 |
栄町の龍角寺、印西市の龍腹寺、匝瑳市の龍尾寺は、印旛沼周辺に伝わる龍神伝説にまつわる三寺です。大旱魃から民を救うために、雨乞祈祷が当寺で行われましたが、聴衆の中から小竜の化身が現れ、大竜の許しを得ずに慈雨を降らせたため、体を三つに裂かれ、その頭、腹、尾をそれぞれ祀ったのが龍角寺、龍腹寺、龍尾寺であると伝えられています。
いずれも千年以上の歴史を持つ寺で、龍角寺の本尊の薬師如来坐像は、関東地方に残る希少な白鳳仏として国の重要文化財に指定されています。また、龍腹寺の梵鐘は県指定有形文化財に指定されているほか、龍尾寺の板碑は南北朝時代に建てられたものといわれています。
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(龍尾寺) 提供:(公財)千葉県観光物産協会 |
千葉県南部には江戸期より江戸・首都防衛ラインとして計画・活用された砲台跡や、軍事施設などの戦争遺跡が数多く残っています。
「東京湾海堡」は明治から大正にかけてつくられ、軍事施設でもある一方、当時の人工島建設としては土木遺産でもあります。第二海堡は改修後、クルーズなどで上陸できるようになりました。近隣にある「富津岬」は砲台、太平洋戦争時は射場として重要な軍事施設で、日本で唯一の列車砲も置かれていました。
また、「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」は、太平洋戦争末期に掘り始められ、合計した長さが1.6Kmあります。壕内では、およそ2,400万年前のやわらかい地層が重なり合い形成されている様子を観察することができます。
「大房岬」は、房総半島南部にある東京湾を臨む岬で、富津岬と並んでかつては軍事施設がつくられ、砲台跡や要塞群など当時の遺構も残っています。今はレジャーが楽しめる自然公園になっています。
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12年に一度、卯年ごとに行われる神幸祭です。次回(令和5年(2023年)10月)で90回目となります。
神輿の行列が、芸能団体を伴い2市1町約50キロメートルに及ぶ順路を巡り、各地に設けられた番所で伝統芸能を披露します。また、旭市三川の海岸では、神輿が海に入る「お浜降り」を行う壮大な時代絵巻です。
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日本のサーフィン発祥の地の一つといわれ、また日本一良い波が立つともいわれます。オリンピック開催前からサーフィン愛好家には人気のスポットとして有名です。
提供:(公社)千葉県観光物産協会 |
サンブスギは、千葉県で生まれた優良な性質を多く持つ挿し木スギであり、250年以上前から山武林業地において挿し木造林の技術とともに受け継がれてきたものです。また、地元の山武地方では、カンノウスギという名称で呼ばれてきました。
古くから建築用材、玄関・ふすま等の建具材、船材として利用され、現在でも家具や木製小物など様々な用途に利用されています。
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落花生には脂肪、たんぱく質などの栄養素が豊富に含まれることから、今ほど食料が豊富でなかった時代、産地では保存食として落花生味噌を切らすことが無かったといわれるほど重宝され、親しまれてきました。落花生の香ばしさとみその味がよく合い、ごはんのおかずやお茶うけに喜ばれています。
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