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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > 文化財 > 文化財の指定と登録 > 新指定・登録の文化財 > 令和7年度県登録文化財の登録について
更新日:令和8(2026)年2月4日
ページ番号:831052
令和8年1月16日(金曜日)に開催された千葉県文化財保護審議会において答申があった 下記の文化財7件について、千葉県教育委員会は、千葉県登録文化財に登録することを決定しました。
この結果、県登録文化財は有形文化財21件、有形民俗文化財2件、無形民俗文化財1件、記念物1件の合計25件となります。
千葉県立東金高等学校記念館(ちばけんりつとうがねこうとうがっこうきねんかん)
(旧千葉県立東金高等学校女学校西洋作法室)(きゅうちばけんりつとうがねこうとうじょがっこうせいようさほうしつ)1棟
千葉県立東金高等学校茶室(ちばけんりつとうがねこうとうがっこうちゃしつ)
(旧千葉県立東金高等女学校茶室)(きゅうちばけんりつとうがねこうとうじょがっこうちゃしつ)1棟
千葉県立東金高等学校正門(ちばけんりつとうがねこうとうがっこうせいもん)
(旧千葉県立東金高等女学校正門)(きゅうちばけんりつとうがねこうとうじょがっこうせいもん)1基
東金市東金1410番地2
千葉県
千葉県立東金高等学校の前身である千葉県立東金高等女学校の西洋作法室と茶室、正門。いずれも明治44年(1911)建築。西洋作法室は平成11年(1999)改修。設計者は県の建築技師であった後藤政治である。
東金高等女学校は、千葉高等女学校に次ぐ県下2番目の高等女学校として、明治41年(1908)に設置。良妻賢母主義教育を背景に和洋2種類の作法室及び茶室が設けられた。西洋作法室は、戦後は校長室としても使用され、現在は「記念館」として来賓などの応接室として利用されている。茶室は畳敷の10畳間に床を設け、幅1間の広縁を3方に回す。正門は中央に2本の親柱、両側に控え柱を立て、門柱上端には、西洋作法室屋根のドーマー窓に呼応する意匠からなる花こう岩の笠石を乗せる。
明治期の高等女学校教育施設として貴重な例であり、地域の景観に欠かすことのできない存在である。

千葉県立東金高等学校記念館(外観)

千葉県立東金高等学校記念館(内部)

千葉県立東金高等学校茶室(外観)

千葉県立東金高等学校茶室(内部)

千葉県立東金高等学校正門
見性寺 欄間「波・雲に龍」(武志伊八郎信由関連作品)(けんしょうじ らんま「なみ・くもにりゅう」(たけしいはちろうのぶよしかんれんさくひん))1点
見性寺 欄間「人物像」(武志伊八郎信由関連作品)(けんしょうじ らんま「じんぶつぞう」(たけしいはちろうのぶよしかんれんさくひん))1対
富津市相川字白坂966番地、967番地
宗教法人 見性寺
武志伊八郎信由(初代伊八。以下、「伊八」)は、江戸時代後期に活躍した彫物大工で、その作品は上総、安房地方の社寺建築を中心に遺されている。一般的には「波の伊八」と呼ばれるが、波ばかりでなく多くのモチーフの優れた彫刻を遺している。
見性寺の欄間彫刻は、三面一式の中央に「波・雲に龍」、左右に「人物像」を配し構成される。「波・雲に龍」は、龍が振り返りながら波間から湧き上がる宝珠をつかみ取ろうとしている様子が躍動的に表現される。「人物像」の2面の彫刻は、いずれも頭巾を被り、道服を着用し髭を蓄えた老年男性像が表現される。向かって左の人物は、唐松が配され川が流れる岩場のほとりに巻物を見ながら座っている。右の人物は背景に唐松と岩、足元に笹を配し、背丈より長い杖を持ち、起立している。モチーフは判明していない。
「波・雲に龍」の背面には、制作年である安永7年(1778)と伊八と2人の弟子(刈込幸七・高梨磯八)の銘が刻まれる。「武志伊八郎信由」という銘を最初に名乗った作品として、彫刻技術の成長著しい伊八青年期の27歳の作品であることが判明している。

見性寺 欄間「波・雲に龍」(遠景)

見性寺 欄間「波・雲に龍」(近景)

見性寺 欄間「人物像」

見性寺 欄間「人物像」
加納家史料(千葉県開発行政関連資料)
長生郡一宮町一宮2460番地(一宮町中央公民館)
一宮町教育委員会
加納家は、江戸時代後期から現在の一宮町一宮を中心とした地域を治めていた一宮藩の藩主の家系であり、明治以降は子爵位を得て、広く財界や政界で活躍した。本資料は、最後の藩主・知藩事だった加納久宜(ひさよし、嘉永元年~大正8年、1848~1919)と、その子である久朗(ひさあきら、明治19年~昭和38年、1886~1963)が残した史料で、書簡・日記・アルバム・スクラップブックなどで構成される。史料の大部分は久朗に関連するものである。
加納久朗は日本住宅公団初代総裁・千葉県知事などを歴任し、戦前には横浜正金銀行ロンドン支店支配人に着任し、クレーギー駐日英国大使や吉田茂などとやりとりを交わした。吉田との書簡からは、親英派として英国政財界とのパイプ役を果たしていたことが垣間見える。木戸幸一、近衛文麿ら政治家との書簡・電報の控えも久朗の政界とのつながりを示し、戦前・戦中の情勢を今に残す。戦後、日本住宅公団総裁時代には大規模な団地の開発に尽力し、この時期の史料には土地買収の進捗や造成に対する反対運動の状況などが鮮明に記される。同時期に東京湾の埋立て問題にも取組み、計画図などが残されている。晩年には千葉県知事となり、短期間ながら東京湾開発計画の構想などを掲げ千葉県の開発行政を推進した。戦後千葉県下において進められた開発行政の歴史の詳細を残すとともに、戦前・戦後の昭和史を伝える貴重な史料である。

加納家史料
鴨川の鰤万祝(房総の万祝資料)
鴨川市横渚1401番地6(鴨川市郷土資料館)
鴨川市教育委員会
万祝とは大漁を祝うために、船主や網元から船頭をはじめとした乗組員たち、関係者に配られた長着風の着物である。海に囲まれた房総半島では江戸時代後期には万祝を配る習俗が定着したとされ、本県における漁撈文化の特徴をしめすものの1つである。
本資料は、手織り木綿に引染(藍液を刷毛で引く染め方)した反物を、単(ひとえ)の長着に仕立てたものである。木綿生地の地色と筆によるぼかしの調和がとれている。背模様の鶴がくわえたマネ旗には「鰤大謀網」、左衽(おくみ)には「昭和8年鴨川漁場」と書かれており、昭和8年(1933)の鴨川漁場でおこなわれた大謀網での鰤の大漁を祝ったものであることがわかる。また、裾模様の中央にもぼかしを活かした鰤が描かれている。
鴨川市八岡(よおか)には、安永年間(1772-1781)に創業し房総半島を中心に東日本太平洋沿岸の万祝の製作を手掛け、南房総地方の紺屋(こうや)の中心的存在であった山田染工場がある。背模様の鶴の特徴から、この万祝の図柄が山田染工場と弟子筋が使用している型紙と同一であることが明らかである。地元鴨川市で製作・使用された本資料は、登録文化財に相応しい。

鴨川の鰤万祝
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