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更新日:令和2(2020)年12月17日

ページ番号:343132

(令和元年度)県指定文化財の指定について

千葉県教育委員会は、有形文化財(絵画)「小丹波村」(千葉市)・「木華開耶媛」(千葉市)・「絹本著色両界曼荼羅」(千葉市)、有形文化財(歴史資料)「茂原庁南間人車軌道人車」(茂原市)、有形文化財(考古資料)「山倉1号墳出土埴輪」(市原市)・「高部30号墳、32号墳出土品」(木更津市)の6件を新たに県指定文化財に指定しました。

小丹波村(浅井忠筆 1895年 油絵 麻布)

(こたばむら)

種別

有形文化財(絵画)

所在地

千葉市中央区中央港1丁目10-1号 千葉県立美術館

所有者

千葉県

概要

藁屋根」の作者、浅井忠(あさいちゅう・1856~1907)は佐倉藩士・浅井常明の長男として生まれ、少年時代を佐倉で過ごした、本県を代表する明治期の洋画家である。

タリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事した浅井は、バルビゾン派の画風を学び、農村・漁村の風景を好んで描いている。「小丹波村」は、「屋根」(1887年頃県指定文化財)、「春畝」(1888年、重要文化財)にみられる緊密な構図と入念に描きこむ重厚な作風から、油彩の技法にさらに習熟し、軽妙な筆触を活かせる画風へ展開していることがうかがえる。明治美術会後期から渡欧まで(明治26年-明治33年)の時代の画風をよく示す作品であり、日本近代絵画史の上でも重要な一点であるである。

小丹波村(縦:25.5cm 横22.0cm)

木華開耶媛(石井林響筆 1906年 日本画 絹)

(このやなさくやひめ)

種別

有形文化財(絵画)

所在地

千葉市中央区中央港1丁目10-1号 千葉県立美術館

所有者

千葉県

概要

「木華開耶媛」の作者、石井林響(いしいりんきょう・1884~1930)は千葉県山野辺郡土気本郷町に生まれた、本県を代表する日本画家で、明治から昭和初期に活躍した。若い頃は石井天風と名乗ったが、1920年に林響と名乗るようになり、1926年に現在の山野辺郡大網町(現在の大網白里市)に居を移したが、1930年に亡くなっている。

石井は20世紀前半の中央画壇で活躍し、南画や中国主題の神仙趣味や人々の労働を幻想的な自然の中に描く独特な新しい日本画の作風を打ち立てた。本作は、「天風」時代早期の作品で、画家の若々しい筆致や意気軒高な進取の気風を見ることができる優品といえ、群像表現の緊密さ、邇邇芸命(ににぎのみこと)が手にする弓と従者の槍が創り出す十字や、姫から後方の従者へと画面対角線をなす配列といった画面構成の理知的な組み立ては、計算され練り込まれた作風を示している。日本神話からの題材選択や主人公2人の心情表現の細やかさにみる物語的な志向は、明治末から大正へかけての浪漫主義の流れをよくあらわしている。

木華開耶媛(縦:115.0cm・横:60.0cm)

絹本著色両界曼荼羅

(けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだら)

種別

有形文化財(絵画)

所在地

千葉市若葉区金親町959(金光院)

寄託先:千葉市中央区亥鼻1丁目6番1号 千葉市立郷土博物館

所有者

宗教法人 金光院

概要

胎蔵界(たいぞうかい)金剛界(こんごうかい)ともに3幅1鋪(絹3枚を縦に継いだもの)で、やや縦長の形式、法量、様式特性が共通し、もとより対幅であったと考えられる。繰り返された修理、改装のため、現状は、両幅とも最外縁部の描き表具が切り詰められている。様式的特性として、平安期以来の本格的な仏画の伝統に則った丁寧な彩色、尊像表現に見る可憐さと古風な品格に画家の確かな技巧が見て取れる。一方で、文様帯の花文や界線、尊像の宝冠(ほうかん)瓔珞(ようらく)、衣の装飾文などの簡略化、界線部の文様帯にある独鈷文の形式化はより新しい時代の要素である。また画絹の材質をみると本作品は15世紀から16世紀の作例に近い。制作年代は南北朝期から室町後期までと考えられる。千葉県内に残る中世仏画のなかでも、本作品の古典的で端正な画風、可憐な雰囲気は、特筆すべきものであり、両界曼荼羅の優品である。

絹本著色両界曼荼羅 胎蔵界(縦:159.7cm・横:107.7cm)

絹本著色両界曼荼羅 金剛界(縦:161.3cm・横:107.8cm)

茂原庁南間人車軌道人車

(もばらちょうなんかんじんしゃきどうじんしゃ)

種別

有形文化財(歴史資料)

所在地

茂原市高師1345-1(茂原市立美術館・郷土資料館)

概要

原庁南間人車軌道は明治42年(1909)10月に、房総鉄道(現在の外房線)茂原駅前から長南町台向までの約9kmの区間で開業した。軌道の建設費と維持費は、県の土木費のうち道路関係費用から支出されることになっており、軌道の敷設は県内の道路改修計画の一環として計画されていた。レールなどの資材や実際の敷設工事は県下に拠点をおいていた鉄道連隊が行った。また、実際の運営については地元の叺屋かますやを中心とした組合が行っていた。

両は軌道の開業に伴い、東京の服部製作所で製造された新車を導入した。車体は木製で、車輪などの取り付け部分及び車夫が押す部分は鉄製である。取り付け部分には固定用の穴が残っている。車輪を含む下部が欠損しているため、現在は木製の台座の上に乗せられている。当時のモノクロ写真と比較すると、車輪のほか車軸、ブレーキ、ステップ、屋根直下の箱状のもの(実態不明)が欠けている以外に大きな欠損は見られない。総体的に見ると当初の部材の多くが残り、改修部分については、この車両が使用されていたときに破損したために修理されたときの木材と考えられる。台車部分が全く失われ、車体部分しか残されていないが、第2次世界大戦中の鉄材供出等を免れ、その遺存状態は良好である。同時期に全国で運行された人車のうち、車体部分がほぼ当初の原形を留めている唯一のものであり、千葉県の土木、交通史や産業史を考えるうえでも貴重な資料である。

茂原庁南間人車軌道人車(高:178cm・幅:122cm・長:210cm)

山倉1号墳出土埴輪

(やまくら1ごうふんしゅつどはにわ)

種別

有形文化財(考古資料)

所在地

市原市能満1489番地(市原市埋蔵文化財調査センター)

所有者

市原市

概要

倉1号墳は古墳時代後期6世紀後半の墳丘長46.3mの前方後円墳である。国分寺台地区の区画整理事業に伴い昭和49年から昭和50年(1974~1975)に上総国分寺台遺跡調査団により発掘調査が行なわれ、平成16年(2004)に財団法人市原市文化財センターにより発掘調査報告書が刊行されている。この古墳の墳丘からは、人物をはじめとする形象埴輪(けいしょうはにわ)が多数出土し、古墳に配置された当時の様子を復元することができた。

倉1号墳から出土した人物埴輪は、埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)埴輪窯跡から出土したものと顔の表現を始めとした形態が共通しており、胎土分析(たいどぶんせき)及び考古学的分析の結果から、本古墳の埴輪は、生出塚埴輪窯跡で製作されたことが明らかにされている。生出塚窯跡で製作された埴輪は関東地方の広い範囲に供給されているが、本古墳は、窯跡から最も遠くに運ばれた事例である。

象埴輪は、人物に加え、翳形(さしばがた)、大刀形(たちがた)が復元されており、水鳥形(みずどりがた)、馬形(うまがた)、家形(いえがた)等の残欠とあわせて、埴輪の配列が復元できる。この埴輪列は、県内で最も良好に残っている事例の一つであり、配列の中には、形象埴輪、朝顔形(あさがおがた)埴輪、円筒埴輪に加え、完形の土師器甕が1点含まれることから、埴輪列とあわせて埴輪祭祀のあり方を知ることができる。また人物埴輪の残りがよく、髪型や服飾が良好に観察することができることから、埴輪列とあわせて埴輪祭祀や当時の装束を考える上で重要な資料である。

資料は、関東地方の首長間の交流を考える上でも重要な資料であるとともに、千葉県における6世紀後半の古墳文化を特徴づけるものである。

山倉1号墳出土の人物埴輪

形象埴輪(両脇:翳形、中央:大刀形)

 

円筒埴輪と朝顔形埴輪

高部30号墳・32号墳出土品

(たかべ30ごうふん・32ごうふんしゅつどひん)

種別

有形文化財(考古資料)

所在地

木更津市太田2-16-2(木更津市郷土博物館金のすず)

所有者

木更津市

概要

部30号墳・32号墳は木更津市西、現在の千束台に所在している。高部30号墳は全長33.8m、32号墳は全長31.2mであり、平成5年度(1993)に財団法人君津郡市文化財センターにより発掘調査が行われ、平成13年度(2001)に木更津市教育委員会により発掘調査報告書が刊行された。発掘調査の結果、この2基は関東地方では最古級の前方後方墳であることが明らかになった。

土品の中で、2基の古墳を特徴づけるものは、30号墳出土の7点と、32号墳出土の20点の合計27点の資料である。内訳は鏡が2点、鉄製品が8点、土師器が17点である。

は両古墳で1点ずつ出土している。30号墳出土の二神二鏡(にしんにじゅうきょう)はほぼ完形で、三角鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)に先行する事例で、千葉県内出土品としては最古のものである。32号墳出土の鏡(しじゅうきょう)は破片だが、破面が研磨されており、破片の状態で使用されていたものと考えられる。土師器の中で特徴的なものとして手焙形(てあぶりがた)土器があり、両古墳から出土している。30号墳出土のものは非常に丁寧な造りで、この古墳から出土した他の土師器と胎土が異なっており、東海地方からの搬入品であると考えられる。一方、32号墳から出土したものは、30号墳のものより簡素な造りで、搬入品を模倣して地元で作られたものと考えられる。鉄製品は、鉄斧鉇(やりがんな)釣針(つりばり)等があるが、中でも32号墳から出土した釣針は、地金が太く大振りである一方、返しがついた精巧な造りであり、儀礼用に作られた可能性がある。

や鉄斧などの鉄器、鏡、手焙形土器が併せて出土することは、古墳出現期の典型的な特徴を示している。また出土した土器等は、伊勢湾岸など東海地方からの影響が明瞭に認められ、その時期は3世紀前半頃までさかのぼる可能性があり、関東地方の最古級の古墳出現期資料として重要である。

墳出現期における房総半島への西日本からの影響を示す重要な資料である。

高部30号墳・32号墳出土品

お問い合わせ

所属課室:教育振興部文化財課指定文化財班

電話番号:043-223-4082

ファックス番号:043-221-8126

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