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更新日:令和6(2024)年4月3日

ページ番号:20590

知事定例記者会見(平成21年4月2日)概要

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知事定例記者会見概要

日時

平成21年4月2日(木曜日)10時30分~11時45分

場所

本庁舎1階多目的ホール

発表項目

  1. 知事退任あいさつ
  2. 県民が主役の県政づくり
  3. 2期8年を振り返って
  4. 心残りだったこと
  5. 結び
  6. 謝辞

件名をクリックするとそれぞれの知事発言がご覧になれます。

 知事発言

(知事)

おはようございます。定例の記者会見、始めたいと思います。

 知事退任あいさつ

(知事)

今日は、任期最後の記者会見になりますので、一言ごあいさつを申し上げたいと思います。

一番最初に申し上げたいことは、本当にこの8年間、知事としての役を果たすことができたこと、しかも、とても明るく、元気に県民の皆様と記者の皆様とも仕事をやってこられたことをとてもうれしく思っています。皆様に深く感謝申し上げたいと思います。

一言で千葉県政をどう考えるのかということを議会で聞かれたのですが、一言でと言われれば、「感謝」という言葉しかありませんというお答えをいたしました。今も同じ気持ちでおります。ちょうど時代の大きな分かれ目と申しますか、ちょうど変革の時期に知事として務められたこと、しかもその中で大変手ごたえのある、そして県民の皆様と一緒に仕事をしながら、完全にとは申しませんが、幾つかのことについては、結果として全国から認められるようなことができたということは、千葉県民全体の誇りだと思っていますし、知事としても、予想を上回って、皆様方にいろいろなことを教えていただきながら、真の地方自治に向けての歩みを歩んでくることができた。そのことを大変うれしくも、幸せな知事だったと思っております。

全力投球でやってまいりました。本当に力仕事だったことは事実ですが、8年間、1日欠かさず、24時間、寝ている間は別かもしれませんが、外国へ行くことも県外に出ることも公務以外はやめて、千葉県のことだけにかけてこられた。そのことは、政治家として大変有意義なことでしたし、特に私のジャーナリストとしての経験と国会議員としての経験、そういったものを超えて知事としての仕事を最後に政治家としてやれたということは大変幸せなことでございました。大変さわやかな気持ちで、そして、すっきりした気持ちで今日の日を迎えることができた。大変幸せなことで、そのことに対して、最大限度の感謝を申し上げたいと思っております。

 県民が主役の県政づくり

(知事)

私が千葉県の知事に就任したのは、地方分権一括法が施行された次の年の平成13年4月5日でございました。この法律によって、国と地方自治体は上下の関係から対等な関係へと変わりました。今までの県が国の出先機関として事務を行う「機関委任事務」の制度が廃止されたことが一番大きな変化かと思います。

昨日、樋口恵子さんに東京で偶然お会いしたのですが、樋口さんがちょうど分権委員会のメンバーで、その日電話をかけてきて、「堂本さん、機関委任事務が廃止されることになったね。これで本当に国の形が変わるわね」と興奮しておっしゃったのですが、ちょうどある会で一緒になったので、「樋口さん、それ覚えてますか」と言ったら「よく覚えている」と言われました。どれだけ実が上がっているかということはわからないのですが、とにかく方向として、地方自治を確立していこうということのスタートだったと思っています。

まさに、中央集権から地方分権への転換期、そういう時期でこの8年間はありました。国の全国一律のルールに従うのではなくて、地方のことは地方で決められる地方分権型社会の構築が求められました。

また、国ではバブル崩壊後の長引く経済の低迷から脱却するために構造改革を進めていますが、そうした中で行われた「三位一体の改革」では、地方交付税の大幅な削減などによって地方財政は逼迫し、地域の福祉や医療にも深刻な影響が出てきています。

また、昨年9月の世界的な金融危機による景気の後退は、県の税収の激減など地方財政に大きな影響を与えるとともに、企業の倒産件数が増加するなど、地方の経済や雇用にも大きな打撃を与えています。

こうした大きな変化する時代の中で、私は県政運営の基本理念に徹底した情報公開と県民参加による「千葉主権の確立」を掲げ、真の地方自治の実現を目指してまいりました。

具体的には、県の中長期的な基本方針として「あすのちばを拓く10のちから」を策定しました。そして、その基本理念は次のように表現いたしました。

県政の出発点は県民です。常に県民の視点に立ち、県民とともに歩み、地域住民のニーズに応え、県民からの政策提言を真摯に受け止めながら、県政運営に当たることを県政に携わる者すべての基本姿勢とします。そうした県民の力の結集が県政運営の原動力でございます。

県民が様々な形で県政に参画するためには、県政の状況が常に県民から見える透明性が求められています。徹底した情報公開が、だから必要ということです。県政への県民の理解を深め、県民との協働を確かなものとするために、これまで以上に情報公開を行い、説明責任を果たしてまいります。

このように書きました。ここにすべてを凝縮したつもりでおりますし、この姿勢に徹してきた8年だと言っていいと思います。

それそこが、私が志した県民と行政との協働による分権型社会づくりにほかなりません。

この8年間、数多くの取組みを進めることができたのは、県民の皆様の、自分たちの地域は自分たちでつくっていこうという、そういった県民の皆様の思い、その強い意志と情熱の高まりによるものだと思っております。

記者会見ではこのように原稿をお出ししないのですが、今日は皆さんがメモをとらずに、ゆっくり聞いていただけるようにと思って原稿にしました。そうすれば、もっと心が通じた会見になるかなという思いがあります。

今、読ませていただいたところですが、結局は、そこが原点でございまして、それに基づいてあらゆる政策を展開してきたと思っていますし、今でも毎日毎日の知事室でのいろんな県内のあらゆる政策について、あるいは事業について、出来事について、県庁職員が入ってきたときに、必ずその視点からの確認を今週に至るまでと言っていいと思いますが、来る職員、来る職員と、そういう形の議論の確認をし合いながらやってまいりました。

その結果、私が最初に思っていたことよりも、はるかに違った方向、それはどういう方向かというと、県庁職員が非常に丁寧に県民の意見を聞くことによって、こちらが予想しなかったさまざまな問題が出てきました。

例えば、ドクターヘリもそういうことの一つですが、救急医療について、どこでどうなるのか、自分たちはこれだけ救急車に時間がかかるかというようなことを、その場で本当に切実にお訴えになる、そういうことから県政をつくっていくということで、必ずしも中央からの法律とか、あるいは計画とか、県庁の中で発想したことを超えるようなことが次から次へと起こってきました。そこにこそ、実は県の独自性を出すことができたと思っています。

国の方から示された法律に基づいて多くの条例の変更ですとか、改正が県議会に出されるわけですが、千葉的な個性を一番出せたのは、そういう国から来たものが、どこの県でも金太郎飴のようにとよく申しますが、同じような、全国一律のものではない、千葉独自のものがそういう形で出てくるということは、就任する8年前には思っていませんでした。県民が実際に物を言ったときの力、原動力というものを想像することが国会議員としてはできなかったのです。そういうことは非常に少ない。したがって、市町村に行けば、それがもっと強いのだと思いますが、そういうことで時代の変革期には、今、このときに県民は何を発想し、どのような価値観を持っているかということを考える必要があると思います。

以上のような形でやってきた事業についてお話ししたいと思いましたが、全部話していると多分2時間ぐらいかかってしまうので、原稿にずっと書いてございますので、関心がある方は、そこをしっかり読んでいただければいいと思います。
短くお話をしたいと思います。

 2期8年を振り返って

(1)成田空港問題

(知事)

一番最初に、就任して2日目ぐらいだったと思うのですが、成田へ参りました。そこで、「知事さん、こんなに国と県と市町村と、当時公団ですが、公団がばらばらだったらば、成田はこれからより発展させることができない。」会が終わってからも、夜11時ぐらいまでそういう話をされました。それが金曜日だったのですが、土曜日に急遽、休みの日でしたが、国と打ち合わせをし、月曜日に当時の森総理のところへ伺うときに、早速に国と県と市町村、そして当時の公団との四者の協議会をつくりたいと、森総理のところにきちっとお話が行っていて、それでぜひやってほしいということで、これが一番最初のスタートでございました。

今まで四者で協議をするというシステムがなかったために、ばらばらだったことが、そうではなく、すべて、あらゆる問題についてずうっと丁寧に、丁寧に、私たちももちろん話しましたが、その協議会ができたことで、国の方も丁寧にその四者と話をするようになった。そのことがこれからも一番大事なことで、とにかく住民をおいてつくったために、成田のボタンのかけ違えが起こってしまったわけです。であるとすれば、ボタンのかけ違えの逆、つまり、住民と徹底して話し合いながら進めていくということが成田で誤解とか、いろんな問題を生じさせない最大の方法だろうと、今でも確信をしております。

そのような中で、「共生」から「共栄」という大きな転換が成田でも起こり得たということで、これから平行滑走路の北伸も進んでいますし、来年は2,500メートルの空港ができるということで、うれしく思っています。ある意味では、最初から最後まで成田のことにかかわったと言ってもいいと思います。

昨日は、国交省に退任のあいさつに行ってきたのですが、「空港のことでは本当にお世話になりました」とこっちが言ったのですが、今度は事務次官からも、「本当に空港のことでは県とたくさん話し合いができてよかった」ということをおっしゃって、深々とあちらが頭を下げたので、両方で同じような思いを持ったのだなと思いました。そのぐらい成田問題については全力投球してきたということが言えて、全力投球ということは何か成果があったということではなくて、丁寧な話し合いを重点的にやってきたと。県庁職員の担当者は、そういう意味では大変忙しい思い、大変な努力をしたのですが、それのおかげで、こつこつとですが、今、着々と歩を進めているという感じがしています。

(2)産業廃棄物対策

(知事)

産業廃棄物は、皆さん、もうご存じのことなのであまり多くを語りたくありません。フィリピンのスモーキーマウンテンというところに記者の時代に取材に行ったのですが、廃棄物が燃えるのはフィリピンの出来事だと思っていたら、自分が知事で就任したら、千葉でどんどん煙を出して燃えている。あのときは市原で起こったのですが、2週間も燃え続けて、本当に驚きました。何としても、いろいろな政策をとる必要があるということで、監視のパトロールをやったり、法律の規制を上乗せ、横出しのような形で条例づくりなどをしました。やっとピーク時の10分の1まで来ましたが、まだこの問題についてはこれから努力していく必要があると思っています。

(3)「負の遺産」の整理

(知事)

次に大きかったことは「負の遺産」です。これはなぜ負の遺産が起きたか。それは成田とも関係がありますが、三里塚闘争の問題に絡んで、収用委員会の委員長が半身不随になられるような事件が起こって以来、16年間停止していた収用委員会、そのために工事が止まっているところがいっぱいあったのです。当時の土木部にデータを出してもらったら150近くありました。ですから、道路とか鉄道というのは供用しなければ意味ないわけですが、みんな止まった。これでは絶対だめだ。無駄なお金が際限なくかかっていました。収用すれば600万円で済むようなところに20億円要求されるというような不条理なことが起こっていました。その解決のための収用委員会の再建は、千葉県にとってとても大事なことでした。

住宅供給公社も債務処理の問題がありました。大変難しいことで、自治体として再生をすることが難しかったのですが、それでも銀行にもご理解をいただいたというよりも、特別調定という形での債務処理をさせていただきました。

三番瀬の中で一番大変だったことは、何と言っても漁業補償問題です。これも何十年という歳月を経ていたので、非常に時間がかかって、やっと去年になって解決をした。この問題については、本当に時間がかかりました。

住宅供給公社も収用委員会もそれぞれ時間がかかりました。しかし、一番大きな「負の遺産」の3つについては、何とかそこを切り抜けてこられたというのが実感です。
 

(4)県土の基盤づくり

(知事)

そのことによって、やっと県土づくり、特に交通網については圏央道の工事とか、館山自動車道、つくばエクスプレス、京成本線の船橋駅付近の連続立体交差などを実現することができました。

これから交通網ということで考えると、前にも申し上げたことがありますが、千葉県は首都圏の中で半島性を持った、円で書くと首都圏の外れのところに千葉県があったのですが、圏央道がきちっとでき上がったときは、その丸の中にきちっと組み込まれる千葉県になって、首都圏の軸が必ずしも中心が東京だけではない。もっと違った意味での交通上の経済的な、そしてあらゆる意味での中心が動いてくるだろうと思っています。

(5)市町村合併の取組み

(知事)

もう一つ力仕事は、市町村の合併でした。明治の合併や昭和の合併は中央集権を目的としていたし、ある程度、強制的に行われたところがあったと思います。国の方針に強引に従わざるを得ないところがあった。それの後遺症といったらいいでしょうか、いまだに残っていました。ですから、合併というのは、それこそ話し合いをして、話し合いをして、話し合いをして、話し込んだ上でやらないと、後遺症を残してしまうのだということをつくづく感じながら、ここに書きましたような新しい市ができ、野田市、鴨川市、柏市、旭市、成田市については隣の町と合併ということで、80から56に市町村の数が減ったというのもこの8年間の中で言えば、県の枠組みが変わったという意味で、大変劇的な、50年に一度の出来事だったと思います。これは知事自身のリーダーシップが問われる問題だなと思っておりまして、一生懸命努力したのですが、長生とか成田のもう少し大きい合併は実現することができませんでした。残りましたが、これは各町の首長さんたちと真摯に話し合うことが大事でした。

(6)千葉方式のうねり

(知事)

しょっちゅう言っていることなので、皆さん、千葉方式のうねりというのは、よくご存じだと思いますが、最初に申し上げたような形で、できるだけ皆様のご意見を伺いながらやったことで、初めのころはまだ陳情だったのです。長い機関委任事務のころからの体質が県民の中でも変わっていませんでした。でも、タウンミーティングだとか、県民会議とかいろいろ重ねている間に、提案だけではなくて、自分で実行したり、制度がなければ自分で制度をつくっていこうと、そういう機運が盛り上がってきたことが非常に画期的だと思います。

昨日までも中小企業のことで、物づくりのことで私は経産省とずっと中小企業の方たちと一緒に交渉を続けていたのですが、そういった物づくりに関していわゆるトライアル発注とか認定とかというのを全国的に展開すべきだということを千葉県から出したわけです。そういうことを一つの県ではあるのですが、千葉県から全国にそういうことを広めようということで、中小企業の方が積極的にお出しになる。そういうことも体質が変わってきた一つの証拠だと、そういうことを言うということ、知事を使って、あるいは県庁職員を使って国と交渉をさせる。そして、自分たちもしに行くという積極性があって、これは大変おもしろいなと、昨日、つくづく思いながら、いろんな電話をかけたりお会いしたりしておりました。

一番わかりやすかったのは、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」だと思います。これは当事者である県民の皆様が、特に障害者が本当に必死になって動いたという意味では、当事者が頑張ったものだと思います。

国連で「障害者の権利に関する条約」が採択される2か月前に成立したことは、千葉県としては大変誇らしく思っております。今でもいろんな知事さんから、うちの県でもやり始めましたよという声を聞くたびに、これも全国にできるだけ早く広がったらいいなという思いを持っております。

中小企業の方たちがあれだけ積極的に県や国に働きかけるようになったというのは、一方では障害者も大変強い立場で一生懸命なさったのですが、中小企業の方もそういうことを言うようなったし、農家の人たちも、千葉県の場合はどんどん国にこれを言っていこうとか、そういうふうなことをおっしゃるようになった。それがとても大きな変化だったし、それを「うねり」という言葉で表現させてもらっております。

「ちば中小企業元気戦略」をやりました。

観光の場合も、同じような手法で観光立県と最初はうたっていましたが、それを超えて、産業としての観光が実現する方向に行っていると思っています。

10万人が参加した「千葉県教育の戦略的なビジョン」、「生物多様性ちば県戦略の策定」、来年、愛知県で生物多様性の締約国会議が初めて日本で開かれるので、千葉にまた期待しますよと、昨日、環境省で言われてまいりました。何か役に立つことがあればいいなと思っています。

県有地の活用を行政が一方的に決めるのではなくて、地域の人たちが立ち上げた研究会によって、住民にとってあったらいいなという施設の提案を受けて整備する「ブレーメン型地域社会づくりモデル事業」も習志野で実現しました。これの一番いいことは、税金、いわゆる県のお金を使うのではなくて、民間でもって実際に事業を展開して、民間の方が入札してやることになったということは、これは予想を超えた画期的なことだと思っています。

このような形で「千葉方式」をいろいろやってまいりました。

(7)全国に先駆けた取組み

(知事)

全国に先駆けたことが出てきたというのは、県民の側から出てきたもの、唯一違うのは「女性専用外来」だと思います。これは私と天野先生の国会議員時代からの執念のようなもので、これとインターナショナルスクールはちょっと違うかもしれませんが、「障害者条例」、「中小企業元気戦略」、「生物多様性戦略」、NPO関連のいろんな事業は県民からの盛り上がり、もこもこと吹き出してきた、爆発したものの結果だと思います。

そういうものができた。

「幕張インターナショナルスクール」も日本で最初の学校教育法に基づく1条校としてスタートしましたから、これがまた全国に広がるといいと思っています。

こういうことは、たとえ私が最初にそういうことを思ってもできるわけではありません。

結局、県庁職員が本当に一生懸命、行政手腕だけではなくて、機関委任事務のときは行政手腕が主だったと思うのですが、それぞれの人が持っている経営的な能力、あるいは創造的な発想、そして政治的な感覚、県職員としてのリーダーシップ、ここがとても大事だと思うのですが、県民と話をするということは、心を通わせる姿勢なのです。そういう姿勢でこの8年間、県の職員がそれぞれの部署で、それぞれの部や課で働いてきたということで、初めて今まで申し上げたことが全部実現したと思います。

それと同時に、県民もそのことを意識して、県民の側から言えば、もっと早くこうであったらよかったというぐらいに、県庁に物が言いやすくなった、明るくなったと言ってくださいました。

今日初めて使った言葉ですが、県民一人ひとりが全部「オール知事」だったということだと思います。知事は知事だけではなくて、1万800人いる県庁職員、入って1年目の人までが知事だということがとても大事だと。オール知事の心構えで仕事に取り組んでくれたこと、それで初めて実現できたことだと思います。県民の皆さんが、それにこたえてくださったということがすばらしかったと思っております。

最初に、そのことが大変幸せに感じると申し上げましたが、最初のときは県庁の職員も一々県民に聞いてくれと私が言うものですから、非常に違和感を感じたかもしれません。慣れるのに1年かかった、2年かかったという県の職員の方もいたのですが、最後の方は、私の方がそんなことやっている、どこどこでもうタウンミーティングやって、こういう意見が出て、それを研究会でまたもんで、こうしましたということを報告だけを受けるように最後はなっていました。

そういう仕事の仕方が定着してきたことに、私は非常に誇りを感じたと言ったらいいでしょうか、そういうふうに思っています。

 心残りだったこと

(知事)

心残りだったことはないのかというふうに聞かれたら、私は子どもの条約、子どもの権利条約というのがありますが、子どもの権利に関する条例が制定できなかったこと。
もう一つは文化です。県の中でのいろんな発展、経済な発展も福祉の充実も環境の保全もみんな大事です。しかし、観光などをやってみると、なおそう思いますが、県としての一つの誇りを持つとすれば、それは県独自というか、レベルの高い文化のある県と言ったらいいと思います。最先端の現代芸術、音楽、今でもデュッセルドルフに少年少女オーケストラが行っていて大変な拍手を受けたという報告をもらいましたが、ドイツで認められるような音楽はとてもすばらしいと思います。

あとは、その歴史や風土に育まれた伝統的な祭りや芸能、そういった「文化の香り」が千葉は高いのだと、そういう県づくりについては、そこまでこちらのキャパシティーが回らなかったというか、みんなで回り切れなかった。今月に入って、3月ですが、最後のことだと思ってやったのが三曲、三味線、お琴、長唄とか尺八の方に集まっていただいて、「どうも日本人は日本独自の音楽を失ってきている。それを千葉ではプラットフォームをつくって、県がお金を出すということではなくて、皆さんがお互いに知り合って、どうやってこれから邦楽を盛んにできるか」ということの話し合いを先日持ちました。「本当にうれしい」と言われて、これを8年前にやっていれば、今ごろはもっと違ったことができていたのにと思って悔しい思いをしたのですが、それは文化ということで言えば、やり残したことだと思っています。

 結び

(知事)

結びと書かせていただきましたが、まさに日本の国が真の地方自治を実現する時代にあって、千葉県政を担い、「変革と創造」に挑戦してきたというのが一言で申し上げられることです。

県民、県議会、県の職員と本当にすべての皆様と思いを一つにして積み重ねてきた挑戦の数々が、皆様の心の中で確かな自信と誇りになって息づき、それを原動力としてこれからも明日のちばを力強く拓いていかれることを願っております。

 謝辞

(知事)

最後になりますが、報道機関の皆さんには、県民の皆様にこうした私たちがやっきたこと、あるいは時には厳しいご批判もたくさんいただきましたが、私はジャーナリズムの本質はそこにあると思っています。

書いてはありませんが、私は30年間ジャーナリストとして皆さんの側にずっといて仕事をしてきました。ですから、多分、ほかの知事よりもジャーナリストの方たち、プレスの方たちを非常に身近に感じてきたということは事実です。

最初にやった仕事というのは、その人の身についてしまうということがあるものですから、国会議員になっても、どこかで常に記者の目と申しますか、第三者的に自分自身を見る、あるいは国政を見るというくせがなくなりませんでしたが、知事になっても同じで、「もし自分が記者の側だったら、ここの局面をどう見るだろうな」、新聞を読むたびに、「ここだったら、こういうふうに書いた方がよかったのに」とか、テレビを見ても、「ここはこういうふうにしたらもっとおもしろく映像化できたのではないかな」とか、そんなことも常々考えながら、時には「すごいうまい表現だな」、「これだけ短い中によくこれだけきちっと書き込めているな」というようなことで、皆さんの仕事のやり方に感嘆をしたり、喜んだり、感動したり、すごくうれしかったこともたくさんありました。「自分ではうまく表現できないことを記者の人は要領よく、きちっと本質を書いてくれている」と思って喜んで読んだ記事が数限りなくございます。

そういう意味では、「情報公開」ということを旗印にしていたので、プレスの方たちが果たしてくださった役割はこのうえなく大きかったと思うのですが、ジャーナリズムの本質というのは、ジャーナリズムがものすごくしっかりしている国は政治もしっかりするのだろうと、私は本質的には思っています。そこにジャーナリズムの本質がある。千葉県の記者の皆さんが、本当に鋭く、本質を突いてくださることによって、千葉県政が健全なものになっていくというのが、ジャーナリズムと県の側の関係だろうと思っています。

そういう意味で、いろんな形で、批判にしろ、分析にしろ、本質を紹介することにしろ、いろんな細かい行事の紹介に至るまで、報道機関の皆様がご自分の仕事としてですが、同時に千葉を愛してやってくださった仕事に心から感謝を申し上げます。

これからもジャーナリストとして、本物のジャーナリストになってほしいな、そう願ってやみません。一緒に仕事ができたことを私はすごくうれしく思っているし、知事でなくなっても、また違うところで皆さんが転勤していっても、何人もの方とお付き合いしていますが、付き合えるような人間の関係性を持てれば、とてもうれしいなと思っています。どうもありがとうございました。

 

 質疑応答

(知事)

もしご質問があれば。

(記者)

まず、2期8年、本当にお疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

今日、たくさんいますので、手短にソフトな質問からと思うのですが、今朝、起きてから今日こちらに臨むまでのお気持ちなどを聞かせていただけたらと。

(知事)

私、国会議員12年やって、知事8年でしょう。辞めるときは相当大きな階段をおりるような、そういう感覚があるのではないかと1年ぐらい前とか思っていたのです。だけど、全然ない。日常的に、朝起きて、顔洗って、ラブにおはようと言って、えさをやって、引っ越しの用意を少しやって、この間、選挙のときにやたらパチパチ写真撮ってくれたおじさんが写真を持ってきてくれたの。名前も知らない普通の人が、知事公舎まで「知事さん、写真だよ」なんて言って持ってくるというのは、これも私はすごくうれしくて、車を降りて、ジャンパー姿のおじさんから写真もらったりしました。

別れはとてもつらいと思うのです。皆さんと別れもつらいし、県庁職員との別れもとても悲しくて、何とかして泣かずにいようと今から思っているのですが、とても危ない。だけど、恐らく、今日も明日もあさってになっても、こんなに平和な気持ちで自分の政治家の舞台から降りることができるというのは、これまた想像外でした。

選挙のことを外して話をさせていただくと、国会議員としても野党を経験し、与党を経験し、初めての連立政権の真っただ中に入って、そのときは本当に大変でした。昨日、国会でいろんな先生方にあいさつに行ったときも、「あのとき一緒に医療改革やったよね」と。だから、あいさつに行くのも、自民党から共産党までどこの党に関係なく、そういう形で仕事をしたし、今度、厚労省などへ行ったらば、あの自・社・さのときの時代は一番真摯に政策を語りましたねというふうに言われたのです。「本当にそうでした。」さきがけは5人しかいなくて、社民党が40人いて、自民党が400人いたのです。だけど、3党の協議を全部の政策についてやらなければならない。だから、さきがけの都合にみんな合わせるというので、相手変わって主変わらずで、私は片っ端から出ているわけですが、相手は社民党も自民党もみんな先生たちが替わっていってしまう。でも、そういう中で議論して議論して議論して。

今でも忘れられませんが、菅さんと山崎拓さんと私がさきがけから出ていたのですが、2度目の連立を組むときの協定を結んだ。それは2日間にわたった。夜ほとんど寝ないで、一度、寝に帰ったのですが、50何項目もすごい議論をしたのです。今は、連立の中でそういうような連立は組まれなくなってしまった。そういった協定をつくるときは、もちろん官僚は全然入ってないので、政治家だけでやりましたが、官僚が入っている場面でも、ものすごく議論したのです。

今度、県へ来たら、今日、さんざん申し上げたように、県民とも県庁の職員とも話して話して、のどがかれるぐらい話してきた。多分、そのことだろうと思います。政治というのは、議論をすることが基本なのかなと思っています。

そういう意味の充足感みたいなものがあって、特別変わるという、ただ、ちょうど任期が来たから、これで私の任期は終わったというのが、多分、明日であり、明後日なのだろうと、そんな感じです。

(記者)

8年間お疲れ様でした。
明後日には知事を退任、肩の荷が下りると思うのですが、その荷が下りたときに一番やりたいことというのは何か。今後、活動予定等、決まっていることがあれば、教えていただけますか。

(知事)

昨日も国会周辺と霞が関を歩いていたら、同じ質問をみんなに受けました。そこで何て答えたかというと、今は真っ白白です。何もありませんというふうにずっと答えてきました。いろんな方からいろんなことは言われます。放っておきませんよとか、これこれやってくださいとかということをいろいろおっしゃってくださるのですが、今まで本当に走ってきましたから、時には立ち止まって静寂というか、静かな時間の流れ、そんなものを少し持つことも大事かなと、その程度の考えです。

一番思うのは、COP10が近いから、日本だけではなくて、外国の方が知っている人がいっぱいいると思うのです。いろんなことがあるかもしれない。まずは、今はそういうことを考えない。たまたま引っ越す先がお茶室なのです。お茶の先生のお稽古場を借りたのです。物は持っていけないし、不便していますが、昔、子どものときにお茶をやったことがあって、お茶の持っている雰囲気、茶室の持っている雰囲気は嫌いではないものですから、いい枠を借りられたなと思って、そんな感じです。

(記者)

各社、お願いします。

(記者)

先月行われた千葉県知事選挙で後任が森田氏に決まったわけですが、森田氏にはどういったことを期待していきたいか、お伺いします。

(知事)

今、期待したいと申し上げたことは、今、千葉が全部とは言いませんが、幾つかの点で、森田流にと新聞に書いておられましたが、森田流に千葉を発展させていただけることが一番。私のこととか、何をということよりも、知事というのはそれぞれ個性持っていますから、森田知事になったら森田流で、森田流の私にできないような形の発展の仕方をぜひ期待申し上げたいと思います。

(記者)

森田流というふうに森田氏はおっしゃっているのですが、堂本さんから森田流というのはどういうものかと見られますか。

(知事)

できるだけ千葉を宣伝したいというふうに選挙の間からずっとおっしゃっていますから、そういった意味で、ご主張しておられる、そこのところが森田流なのかと思います。

(記者)

8年間、お疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

今の質問とも関連するのですが、選挙期間中、堂本知事は重ねて、時計の針を逆戻りさせてはならないとおっしゃっていました。少なくとも、私個人は森田さんを指していたのではないかと推測するのですが、その森田さんが当選されたことへのご感想をお聞きしたいというのが1点、今、森田さんは知事にご就任になる前から麻生首相にお会いになられたり、石原さんにお会いになられたり、先ほどの堂本さんのお言葉を借りるとすれば、ある種、陳情型の政治の手法を早くも発揮されているような印象があるのですが、その点についてもあわせて感想を伺えればと思います。

(知事)

森田知事にも時計の針を逆転させていただきたくないと思います。大きい意味では、さっきの質問、TBSさんとの質問とも重なりますが、時代の流れを逆流しないようにしていただくということは大事だと思います。

さっき申し上げたように、就任してからですが、私も国会を辞めてすぐでしたから、間はほとんどない。2月には国会議員をやっていて、知事になるまでの間は1か月しかなかったのです。だから、まだ国会が近かったので、就任した途端に、就任して4日目ぐらいに総理のところに伺ったので、それはお互い、国会議員をやっていると、そういう意味では人脈を持っていますから、総理のところ、私は石原知事のところへは伺いませんでしたが、総理のところへ伺ったり、よく覚えてないのですが、いろんな大臣のところや、当時の自治省などにも行ったかもしれませんが、そこはあいまいです。はっきり記憶していません。だから、それはそんなに特別なことではないと思います。

(記者)

関連して、選挙戦で知事が後継指名された吉田さんが今回は落選されたという結果になりましたが、敗因はどのようにお考えになっていらっしゃいますか。

(知事)

選挙というのは、アメリカが一番激しいと思うのですが、オバマとヒラリー・クリントン見てもそう、お互いにけなし合いやなんか大変なネガティブキャンペーンをやっています。日本は、我々の体質には全然合わないから、あんなことはできませんが、それでも選挙というのは、スポーツに例えられるようなこともありますから、口で相当に戦っているわけで、自分の政策をどれだけアピールできるかというのが選挙だろうと思うのです。ですから、選挙が終わったら、これは県民の選択だというふうにきちっと受け止めることが一番大事、私はそういうふうに受け止めています。

(記者)

先ほどの質問とも関連するのですが、森田知事に対して先輩知事、あるいは一県民として、政策あるいは施策として、これだけはという要望というか、注文というのはおありでしょうか。

(知事)

まさにさっきの質問にお答えしたように、細かいことで申し上げることはございません。

後継なら別ですが、そうでないわけですから、大きな言い方で申し上げれば、21世紀は都道府県間の競争もありますし、外国との競争もありますし、そういった意味で非常に厳しい時代でありますので、ぜひとも時計の針を逆転させないとか、流れはどんどん推し進めていただくということが一番のお願いでございます。

(記者)

2つお聞きしたいのですが、1つは、知事が8年間尽力された三番瀬の問題についてですが、今後、どのようになっていくことを期待されるかということ、もう一つは、心残りだったというところにも子どもの権利に関する条約の制定というのがありますが、全国に目を転じると、子どもが痛ましい事件の被害者になったり、加害者になったりといろいろありますが、この中で千葉県の子どもや若い人に何かメッセージというか、そういうものがあれば、お願いしたいのですが。

(知事)

まず、子どものことから言えば、親あっての子どもです。ですから、一番心を痛めるのは、親による虐待。子どもの最後のよりどころは親だと思うのです。その親が加害者である場合、子どもは身の置きどころがない。議会でも追及されたので、この間も富浦の富浦学園に行ってまいりましたが、そこの子どもたちの大半は虐待で来ています。だから、12年間とか、高校出て就職するまであそこで育った子どもたちもいます。面会に来る親もいれば、私たちと写真などを撮っても、ここにいることがわかると、また連れにこられて、また虐待されるので、絶対に子どもたちを見せてはいけないという子どももいました。

いずれにしても、子ども全体の中では、普通には親にかわいがられて大事にされて、みんなすくすく育っていると確信していますが、そういった不幸にして自分の親から虐待される、あるいは捨てられている子どももいます。そういった子どもたちが子どもの権利というか、一人の人間としての子どもに対して、私たちがバックアップしていかなければいけないことだろうと思います。知事でなくなったときに何をするかと言われたときに、今は真っ白白と言っていますが、気持ちの中では、そういった子どもとか、大人でも同じで、刑務所を出た方とか、精神病院を出た方とか、社会に受け入れられない子どもや大人、そういう人たちに対して、行政の中でできることはどうしても限界があるのです。だから、個人になったときは、できることといったら本当に小さなことしかできないかもしれないけれども、この間、気になっていたのは、そういう人たちのことなので、ホームレスの方たちもそうです。できるだけ、そこに心を寄せていきたいと思っています。

三番瀬は、住民が参加して円卓会議から再生会議へと進んできました。そこのご意思を尊重していただくことが大事かと思います。

(記者)

8年間、お疲れさまでした。いろいろありがとうございました。

(知事)

ありがとうございます。こちらこそ。

(記者)

先ほどの発言にありました時計の針の話ですが、今おっしゃられたのは、森田さんに対しては都道府県分権の流れのことを言われましたが、堂本知事が取り組んでこられたいわゆる千葉方式と言われる県民参加の手法も入っているのかということ、もう一点が、今回の選挙戦でいすみ鉄道の社長であった吉田さんの出馬がありましたが、これに伴ってこの地域では賛否両論いろいろあったと思います。改めて、この地域の方に対して何かありましたら。

(知事)

まず先の方のご質問ですが、私が就任する場合でも、沼田知事は何もそういうことをおっしゃらなかったです。新しい、新鮮な気持ちでこれから知事をやろうという方に、これをぜひやってくれということはあまり申し上げたくないです。あまりではなくて申し上げない方がいいと思います。自由に闊達に、先ほど申し上げたように、個性を生かしたことが大事だろうと思います。

だから、時代に逆流しないとか、その程度のことは言ってもいいのだろうと思うのです。21世紀に力のある、そういうことを選挙の中でもおっしゃっていましたので、それは全く矛盾しないことだろうと思います。

いすみのことですが、私、地元に丁寧に入ってお会いしてないのであれですが、こんな言い方をされました。吉田さんは、「私たちが信じられないほどいすみ鉄道に入れ込んで、改革をして、あんな人はほかにいない」ということは異口同音に皆さんがおっしゃっていました。

そういう人だから、ぜひ県知事になってほしいという思いもあり、また逆にいすみ鉄道を最後までやってほしいという思いも多分両方あったのだろうと思います。もう少しいすみに行っていろいろ話し合いをしてみたいと思います。今、みんながどんなふうに考えているか知ってみたいなと。これはジャーナリストとしての感性ですが、イシイさんの質問と同じような関心で、自分も知事でなくなったら自由なので、みんなどんなふうに考えているか、いつの日か。まだ、今すぐは行かないけれども、半年ぐらいたったら、落ち着いたら行ってみたいと思います。

いすみ鉄道にみんな乗りに行こうと言っているから、先に乗りにいってしまうかもしれないわね。楽しいですよ、いすみ鉄道。

(記者)

本当にお疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

これからもよろしくお願いいたします。今、記者がおっしゃっていましたが、それと同じようなお話ですが、今、その答えでは何をやってもらいたいということは言わないというお話でしたが、今、お話聞いておりまして、森田さんは同じ経歴なのかなと。テレビ局にいらっしゃって、国会議員。テレビを通じて俳優であった森田さんで、かつ国会議員が十数年ありましたというのは、経歴としてはすごく似ているのかなと思いました。そういう面では、先輩として今後、森田さんにどのようなことを、知事をやってこられた経験に基づいて、何か提言するというか、アドバイスすることがあれば、それを教えていただきたいということが1点。

もう一点は、知事は千葉に来られるまでは東京に住んでいらっしゃいましたが、これからは千葉の県民としていらっしゃっていくのかどうなのか。県民としていらっしゃるのであれば、一県民としてどういう県になってほしいという思いがあるのか、教えていただけますか。

(知事)

前半の方は、私はテレビといっても演劇のことをやったことは一度もなくて、会社へ入ってから出るまで報道局にいたものですから、皆さんと同じように記者稼業で、同じテレビ局の中でもドラマをやっている人たちとか、役者さんとはちょっと質が違うかなと思います。

ジャーナリストとしても割に、当時はあまり社会部、政治部というふうにテレビも分かれてなくて、どちらかというと調査報道とか地味な報道をしていた人なので、森田さんの青春をやっていたような方と比べると、前半のところは同じテレビにかかわったとしても、ちょっと異質かなと思います。

国会議員から知事というのは、石原さんしかり、松沢さんしかり、上田さんしかりで、関東はまた同じような、みんないつもそれを誇りにしておられるのです。「私たちはみんな国会から出てきている」というふうによくおっしゃって、私もそうでしたから。両方あると思います。県知事から国会議員になった先生たちもよく知っているし、市長から知事になっている人、今は町長もいます。だけど、国会議員から知事になるというのもあるのです。

私は、たまたま自分がかかわった法案、さっき申し上げたように、与党でも数限りなくたくさんの法案にかかわってした。それがちょうど施行されるときに知事になるということのおもしろさ、それはもうこんな幸せな人間はないと思いました。こんなふうに理解されてしまって、こんなふうに地方へくると、それが実際にこの一行一行が施行されるのだというふうに思いました。

森田さんと違うことは、森田さんは国会議員を辞めて何年ぐらいたつんでしたっけ。すぐではないですよね。4~5年たってますね。だから、必ずしもつくった法律がそのまま、でも、当時、おられたときにつくった法律も実際にまだ生きているわけですから、そういうことでは関係はあるだろうと思います。そういうおもしろさがありますよということを言ってあげたい、そんなことです。

一県民としてどういう思いがあるかということですが、これは知事職として思っていることと全く同じです。一人ひとりが自分らしく生きられる千葉県でありたいと思います。

(記者)

知事、お世話になりました。

(知事)

ご苦労さまでした。

(記者)

いろいろと勉強になりました。さっきの記者と近いことですが、いすみ鉄道についてですが、今回、吉田さんを後継に指名して、ご自身の後継者をめぐる問題で、いすみ鉄道をめぐる県政運営では混乱を引き起こしたと思うのですが、そのことについて知事はどういうことをお考えになっているのかというのを伺わせていただきたいと思います。

(知事)

就任以来、ずっといすみ鉄道のことでは悩んできました。あまりにも赤字が多いので、廃線した方がいいと言うのは簡単ではあったわけです。しかし、大多喜高校の生徒たちのことを思うと、それも難しい。そこで、2年だけのトライアル期間みたいなもので公募させていただいたのが事実ですが、吉田さんのような人がいたということ自体が不思議だと思います。普通、4時半に千葉を出て、5時の始発から付き合う社長さんなんてまずいないのではないかと思います。終電までおられたということです。その意味では、非常に人を得たといいますか、今までに考えられないようなアイデアでいろいろ展開してくださった。

本当はそういう人がもう1人いれば、立候補するのに吉田さんでなくてもよかったのかもしれませんが、探しに探して、お願いにお願いをしても、千葉でなかなか立候補していただけなくて、最後に吉田さんに決心していただいたわけですが、つけていただけたやり方で何とか、これから県庁も、県の鉄道ですので、県としても最大限の努力をしてやっていくように、次の知事になってしまいますが、やっていただくことが大事かなと今は思っています。

吉田さんの話を聞いていたらば、こういうことをプレスに言っていいのかよくわからないけれども、本質的にあそこを改革するためには5~6年かかるのです。しかも、その内容というのは、特に人事の問題、給与の問題、小湊鉄道と一緒にしようと思ったときに、どうしてもそういう調整が必要になってきます。ですから、そのことができるのは、むしろ、単にいすみ鉄道のアイデアでもって営業するという部分も大事ですが、それ以上の千葉県における構造的な問題、私たちも人事のことについては変えないということも枠をはめてお願いしているのです。だから、そういう部分でいうと、本人とそこのところは確認していませんが、多分、知事になった方がそういった本質的な構造的な問題までの変革をした上で、継続を可能にするというか、単にいすみ鉄道だけではなくて、千葉の鉄道の交通網についてのビジョンを持っておられたと思いますので、そこのところはとても大事だと思っています。

(記者)

最後に、そういったことで、県政に混乱させてしまった部分については、どうお考えですか。

(知事)

県政、別に混乱してませんよ。

(記者)

そうですかね。議会においても異例の、そういったことがあったと思いますが。

(知事)

今申し上げたような感想です。

(記者)

お世話になりました。一つ、国に対して、最後にご注文があれば、お願いします。

(知事)

分権一括法が通っていながら、実質的に権限と財源の移譲が行われない。これは地方がみんな泣いています。特にああやって福祉などで2,200億円も予算切っているという形で、国の財政再建も大事でしょうが、地方から搾り取ることだけはやめてほしいということ、真の地方分権を確立しないと、日本という国は世界に伍していけないと、私は確信を持って申し上げることができます。そのことについて、中央はあまりにも鈍感なのではないかと思いますし、例えば、今、行政と国との間のブロック化が進んでいるのです。昨日も東京で厚生労働省の問題で、ブロックになると雇用均等法の相談室が千葉県も東京まで行かなければならなくなるというようなことになっちゃうわけです。銚子の人が、自分の雇用のことを訴えに何で東京まで行かなければならないのかということになります。

そういうような二重行政はやめて、県のできる行政、あるいは市のできる行政は、そこにきちっと移譲すべきです。そういう意味で、まだ補助金のあり方等、そういった国の出先機関は二重行政の最たるものなので、そこのところは違うと、きちっと対応してくれないと、国がおかしくなると思っています。

(記者)

本当にお疲れさまでした。いろいろお世話になりました。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

2点だけ伺えればと思います。1つは、知事選挙の投票率は前回よりは少しは上回りましたが、期間中に西松建設の政治献金問題などありまして、政治不信、政治家への不信ということもあるかもしれないのですが、そういったことも話題となりました。この点については、知事はどうお考えになるかと。

もう一点は、きっと知事、さっき政治家の舞台を降りられるのは満足されているということだったのですが、知事も政治家ですし、リーダーというのはかなり孤独であると、この間、麻生さんもそのようなことをおっしゃっていましたが、そういったことを踏まえて、ご自身がこれまで決断してこられた中で、どういうことが助けになったのか、例えば森田さんの新しい知事にも知事の孤独を感じながら、どういった点を注意していけば、どういう決断ができる、どういう行政を進めることができるかというアドバイスがもしあれば、教えていただけますか。

(知事)

前の方の政治離れというか政治不信、私が何度か街頭で申し上げたことは、そういうことで政治をあきらめてしまうということは、むしろ無責任で、こういうときだからこそ、きちっと選挙をしてくださいというふうに言いました。にもかかわらず、投票率が上がらなかったことは残念に思っています。

孤独かということですが、最終的な決断を個人でやるということがないわけではありません。特に後半ですが、私がすごくやりやすかったことは、先ほど県民への情報公開ということをしましたが、大事なことを決めるときに、必ずその問題によって、例えば副知事さんと担当の部長とか課長を入れて合議制のような議論をしたのです、さっきから申し上げているように。時間はかかるのですが、議論をして、そこでもって意見を聞いて、決断をするということをやりました。そんなものですから、最終的にそこの意見と違ったことを私が決断したことは1回だけはあるのですが、それ以外のことは、ほとんどみんなで納得して決められた。同時に、そういうやり方なものですから、この分は副知事さんお願いしますとか、課長はこういうふうにして、実際にやってくれとかということができたので、孤独感は後半は非常に少なかったです。

ですが、最終的に責任と決定は知事がやるとすれば、それは孤独という言葉で言われるのかもしれないけれども、私はそれはそもそも知事になることの責任そのものだと思っています。だから、公務以外は外国もよその県にも行きたくない。自分で自分に恥をかきたくなかったのです。どこか行っている間に地震が起こったということになれば、すごく嫌だという思いがあるので、常に知事として一番大事にしなければならないことは判断だと思います。

ですから、失礼ではなく申し上げさせていただければ、それは判断と決断が一番大きな知事の仕事だと思っていますし、それが間違わないために自分をおくということが知事の仕事だと思ってやってきました。失礼だから、一般論としてそう思っています。

(記者)

8年間、本当にお疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

取材ではお世話になりました。本当に御礼申し上げます。

先ほど我々マスコミに対して謝辞という過分なお言葉をいただいておりまして、それも非常に感謝しておりますが、改めて全県民とここにおられる幹部の方々を通しての県職員に対しての一言、この春、県庁に入ってこられる新職員の皆さんに対しての一言をいただければと思います。

(知事)

県民と職員、プレスの皆さんに対しての言葉は、さっき申し上げたように感謝しかありません。本当にありがとうございました。ここまで支えていただいて、一緒に仕事をしてくださったことに、心から感謝を申し上げます。大きい病気もしないで、風邪ぐらいは引きましたが、最後の日までこうしてやってこられたということに対して感謝です。

もう一言つけ足せば、蛇足かもしれないけれども、県民の皆様とも県職員とも楽しく仕事ができたのです。これはとてもうれしいことでした。そのことに対して、ありがとうございましたと申し上げたい。

新人の人たちは、昨日、入庁のあいさつを私、30分ぐらいさせてもらいましたが、そこで一番強調したことは、民間の企業を選んだのではなくて、地方公務員を選んだ皆さんは、公の仕事を選んだのだということです。自分のための人生もあるかもしれないが、あなたたちの選んだ人生は、千葉県民に奉仕する、サービスする、そういう仕事を選んだ。公の仕事をやるということの尊さと同時に、やりがいというものを十分認識してほしい。そして、常にそれを心の中に持ち続けてほしい。定年になるときまで、それを持ち続けてほしい。

公の仕事をしているということは責任もあるわけです。ですから、公人であるということをしっかり受け止めるということがとても大事だと思っています。

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