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更新日:令和6(2024)年3月27日

ページ番号:8675

土地改良の歴史

船橋随庵(ふなばしずいあん)と関宿堀

関宿藩では、度々、利根川の洪水による被害を受けていましたが、浅間山の大噴火以降、利根川の河床上昇が著しくなり、農地の排水は一層困難になり農民の生活は困窮を極めていました。

そこで藩の重臣であった船橋随庵は利根川の治水政策の抜本的な見直しを幕府に提案しましたが、聞き入れられませんでした。

その一方で、このような状況を解決するため、嘉永元(1848)年関宿城下江戸町から二川・木間ヶ瀬、現在の野田市小山・船形に至り利根川に排水することにし、また、用水にも困らないように野田市関宿三軒家から利根川の水を取り入れる用悪水落(用排水路)の整備に着手しました。この水路が関宿堀(関宿落)と呼ばれ、阿部沼への逆流防止などの配慮もされています。

嘉永3(1850)年工事の完成により、内水氾濫による水害と用水不足が大きく軽減されました。

現在、利根川からの用水は、その後の土地改良事業により下流部に設けられたポンプで取水されています。

明治初期の関宿堀上流部のようす(明治16年測図)

明治初期の関宿堀上流部のようす(明治16年測図)の画像

手賀沼干拓の歴史

手賀沼干拓への試み

手賀沼は、むかし香取海の西端に位置する入り江でしたが、利根川の整備が進むにつれて砂州がつくられ六軒堀を通じて利根川とつながった湖沼になっていました。寛永13(1636)年に弁天堀が開削されたので手賀沼沿岸の新田開発が促進されました。大規模な新田開発へ最初に挑んだのは、明暦元(1655)年に万屋治右衛門ほか15名が開発の申請をおこなったことに始まります。

幕府でも印旛沼・手賀沼の新田開発を目的として寛文6(1666)年新利根川を開削し布川・布佐の狭窄部を締め切り利根川を付け替えましたが、寛文9年再び旧流路に戻されました。

そこで、寛文10年(1669)、16名の申請人たちは、江戸の海野屋作兵衛を加え、『手賀沼落堀』を開削して手賀沼の水を現在の将監川に落とし、新田開発を行う計画を勘定奉行に提出しました。しかし、七か村の反対により、結局は寛文11年、現在の木下から将監川の間は地元の村民の自らの手で『手賀沼落堀』を完成させ、1700年代の初頭までには約360haもの新田がつくられました。しかしながら、元禄期(1688~1703)には利根川の河床上昇により排水能力が低下して新田への冠水が増え年貢の収納も激減しました。

第2回目は、江戸の町人高田茂右衛門友清が井沢弥惣兵衛の指導により、享保14(1729)年に工事を完成させたもので、千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田をつくりましたが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終わりました。

第3回目は、幕府の補助を得て地元の農民が延享2(1745)年に完成させたが洪水により失敗に終わりました。

第4回目は、田沼意次が天明3(1783)年に印旛沼の水と合わせて検見川に排水し新田をつくる計画を作り、手賀沼は天明6年に完成しました。その効果は大きく、手賀沼新田は復興の兆しがみられたが、また洪水により水害に襲われたことと、田沼意次が失脚したため完成を見ないまま中止されました。

戦前の洪水の氾濫

手賀沼干拓事業

明治以降も国や県等によって再三干拓の計画がありましたが、工事着手にはいたらず、その後も利根川の洪水による水害にみまわれ、特に昭和13年や16年の洪水は深刻な被害を与えました。

しかし、第2次世界大戦後、食糧増産が国の施策となり、昭和20(1945)年に農林省直轄工事となって本格的な干拓が始まりました。

まず、利根川の洪水に左右されることなく、手賀沼周辺の滞水を除去できる『手賀沼排水機場』を利根川に連なる手賀沼落し堀の末端(六軒堀と弁天堀合流点)に設け、手賀沼の東部分を干拓して435haの農地がつくられました。

さらに、西に残る水域650ha(上沼)を貯水池化し用水を確保して、6地点に揚水機場を設けて沼の周辺耕地2479haのかんがいが行われるようになりました。

この事業は、昭和43(1968)年に完成し、現在の手賀沼周辺地域の農業の基盤が出来上がりました。

第二干拓工事風景

第二干拓工事風景

手賀沼の昔と今

この地図は、国土地理院発行の地形図を当事務所が加工したものです。

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所属課室:農林水産部東葛飾農業事務所指導管理課

電話番号:04-7143-4124

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