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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > その他の文化資源 > ふさの国 今昔 -過去から未来へ- > 09.利根川水運と醤油・味醂生産
更新日:令和5(2023)年4月14日
ページ番号:314540
野田のキッコーマン・キノエネや銚子のヤマサ・ヒゲタなどは、日本を代表する醤油メーカーです。 千葉県の醤油は、全国生産量の33.6%(1995年)を占め、第1位です。醤油は小麦と大豆を麹菌(こうじきん)で発酵させ、塩水で仕込んで作ります。また流山はみりんの産地として知られますが、みりんは餅米と米麹・焼酎を仕込んで作ります。どちらも麹菌の力で、時間をかけて醸し出される発酵調味料です。
醤油は江戸時代のはじめころに富農や名主層、近江商人、紀州の出身者などによって関東各地で作り始められましたが、次第に独自の濃口醤油へと発展し、江戸への出荷を伸ばしていきました。醸造家は関西からの下り醤油に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いながら、品質の向上を図りました。そして文化・文政期に江戸前の調理が発達すると、江戸人の好みは濃口醤油へと急速に傾き、関東の醤油がすっかり江戸市場を押さえることになったのです。その製造の中心が、野田と銚子でした。
一方、みりんは今でこそ料理のかくし味として、主に調味料として使用されていますが、当初は、甘い酒として飲用されていました。そばつゆなどの料理に使われるようになったのは江戸中期以降、今のようにさまざまな料理に用いられるようになったのは、明治も後期のことです。酒の醸造が盛んだった流山では、秋元家と堀切家の二醸造家できれいに澄んだ「白みりん」の醸造に成功し、それまで主流だった関西系の赤みりんを圧倒して特産として知られるようになりました。
野田・銚子が醤油の、流山がみりんの産地として名を馳せるようになったのは、利根川や江戸川に接し、物資の輸送に便利だったからに他なりません。穀物や塩などの原料の集荷にも、江戸等への出荷にも、当時は水運が不可欠でした。例えば野田から江戸まで、高瀬船で順風ならば8時間で着きました。高瀬船は日本でも最大級の大型輸送船です。利根川中流域や江戸川の浅瀬に対応できるように、独特な構造によって軽く、しなやかに作られていました。
明治30年代より利根川下流域の都市が鉄道で結ばれ、船による輸送は次第に鉄道に、さらにトラックへと遷っていきます。特に関東大震災の復興に使用するコンクリートの材料として江戸川の川砂を大量に掘削したことは、江戸川と利根川の流れを変え、水運に大きな打撃を与えました。
しかしその後も醤油は確実に販路を拡げ、世界各地に進出し、現在に至っています。流山でのみりんの生産も、引き続き行われています。
下総国醤油醸造図
空樽を満載する高瀬船
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