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更新日:令和5(2023)年4月14日

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22.房州うちわ今昔

県内初、国の伝統的工芸品「房州うちわ」の特徴と成り立ち

房州うちわとは?

 京都府の「京うちわ」、香川県の「丸亀うちわ」とともに、日本を代表する三大団扇に数えられるのが、千葉県南部(館山市・南房総市)で作られる「房州うちわ」です。木の柄を差し込む「京うちわ」、平たく削った竹で作られる「丸亀うちわ」に対し、「房州うちわ」は、細い篠竹(女竹)を柄とする点に特徴があり、平成15年、千葉県で初めて、経済産業省から国の伝統的工芸品に指定されました。

 材料となる女竹(めだけ)は、下から3分の1ほどの部分に節がくるように切りそろえられ、節から上の部分はカミソリで64等分に細かく割き団扇の骨とし、節の下はそのまま柄となります。そして、全体で20以上の工程を経て「房州うちわ」に仕上がります。

 房州うちわは、かつては夏の手軽な贈り物として重宝され、昭和初期には年間約800万本が生産されましたが、戦後、一般家庭に電気扇風機やエアコンが普及し、現在は年間約100万本に減少しました。その一方で、現在は、浮世絵や万祝の柄を染めた布地を貼って丁寧に仕上げたものも作られており、和風の民芸調のインテリアとして注目されています。

房州の女竹と房州うちわの成り立ち

 房州の山野には女竹(めだけ)が自生し、温暖な気候のため節間の長い良質な竹が採れました。この女竹の存在が、団扇と房州とを結びつけることになりました。房州うちわの成り立ちについては、大正7年(1918)刊行の『房総町村と人物』によると、那古(なご)(館山市那古)に住んでいた岩城庄七(いわきしょうしち)は団扇の材料となる女竹を東京へと出荷していましたが、庄七の子・惣五郎(そうごろう)は明治17年(1884)に東京から団扇職人を招き、紙を貼っていない団扇骨の生産を始めたとされています。実際、明治12年(1879)、岩城庄七が安房郡長に申請した「竹仲買商売営業願(たけなかがいしょうばいえいぎょうねがい)」が残されており、『房総町村と人物』の記事を裏付けています。明治10年代に房州・那古で団扇骨作りが始められ、これが房州うちわの起源となったと言えるでしょう。

 明治から大正にかけては、房州では団扇骨だけを生産、東京で「江戸うちわ」として仕上げていました。しかし、大正12年(1923)に関東大震災が発生、東京の団扇生産が大打撃を受けたため、団扇問屋・横山寅吉が館山市船形に移り住み、団扇骨から完成品まで生産する一貫生産を開始しました。これが、「房州うちわ」ブランドとして定着することになったのです。

平成の房州うちわ

平成の房州うちわ

大正時代の房州うちわ

大正の房州うちわ

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