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更新日:平成29(2017)年3月1日

13.佐倉城と国立歴史民俗博物館

佐倉城の今昔

国立歴史民俗博物館

 佐倉市国道297号線(成田街道)沿いを京成佐倉駅から船橋方向に歩いていくと、「歴博」と書かれた国立歴史民俗博物館の建物がみえてきます。昭和58年に開館した日本の歴史と文化について総合的に研究・展示する国立の歴史博物館です。

 この歴博のある地、隣接する佐倉城址公園、および県立佐倉東高校は、近世佐倉城があった場所で、それぞれ椎木曲輪、本丸・二の丸はじめ城の中心部、三の丸が配置されていました。現在も堀や曲輪などかつての様子を示す数多くの遺構が残されています。西に鹿島川、南に高崎川、北に広大な印旛沼があり、城は印旛沼から続く低湿地帯を眼下に見下ろす鹿島台地上に立地し、敵から攻めにくい場所にあったことがわかります。

佐倉城

 佐倉城は、最初からこの歴博や城址公園を中心とした周辺地域にあったわけでなく、中世および戦国時代には、東に3kmの地域(現在の佐倉市大佐倉から印旛郡酒々井町にかけて地域)に置かれていました。現在、この地域は本佐倉城跡として国指定史跡となっています。この本佐倉城は、戦国大名千葉氏の居城として文明年間(1469~86年)に千葉輔胤の代に築城されました。千葉氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後も、徳川一門などがこの本佐倉城の地に陣屋を構えていました。

 その後、慶長16年(1611)、徳川家康の命で土井利勝が、未完だった千葉氏の鹿島城を6年掛けて整備し近世佐倉城として完成させました。元和元年(1615)一国一城令後、本佐倉城が廃止されたことで、この佐倉城が以後江戸東方の要所としての役割を果たし、代々老中など幕府の要職に就いたものが城主となりました。幕末期に活躍した老中・堀田正睦(ほったまさよし)もその1人です。

 明治になり佐倉城は政府に接収され、明治6年、兵舎建設のため本丸銅櫓(ほんまるどうやぐら)、隅櫓(すみやぐら)、御殿、大手門、その他の諸門、建物が払い下げられ取り壊されます。その後、引き続き兵舎や軍の病院などが置かれましたが、戦後、昭和39年に佐倉城址公園となり、昭和54年病院が城外が移転した後、58年歴博が設置されました。周辺においても、博物館建設に伴う整備作業として椎木門北側の馬出し土塁と空堀などが復元され、現在の姿になりました。

佐倉城の大手門

佐倉城の大手門(菅谷義範氏蔵)

佐倉城跡公園

佐倉城址公園

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