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更新日:令和5(2023)年4月14日

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32.製鉄工場と上総海苔の養殖

小糸川河口を舞台とした製鉄産業の発展と海苔養殖の始まり

新日本製鉄君津工場

 小糸川の河口付近、君津市の海岸部には、新日本製鉄君津工場の巨大な建物が立ち並んでいます。首都東京をひかえた千葉県内の製鉄産業は、昭和28年の川崎製鉄千葉製鉄所の創業に始まり、京葉工業地帯の先駆けとなりました。京葉工業地帯の南端・君津に製鉄所が築かれたのは昭和40年、八幡製鉄が君津工場の創立に遡ります。昭和45年には、富士製鉄と合併して新日本製鐵が発足、当時、最新鋭の設備を持った新日本製鐵君津製鉄所が誕生しました。現在でも、粗鋼生産量約1,000万トンを誇り、日本を代表する製鉄工場となっています。

上総海苔発祥の地

 昭和30年代以前、小糸川の河口付近には、広々とした豊かな干潟が広がっていました。そして、この干潟こそ、千葉県を代表する海産物「上総海苔養殖の発祥の地です。

 江戸時代、江戸の食文化の発達にともない、江戸前の海苔の需要は高まり、生産地は、隅田川河口の浅草から品川、羽田、大森周辺へと広がっていました。更なる、生産地の開拓を志したのが江戸出身の近江屋甚兵衛(おうみやじんべえ)(1766~1844)でした。

 彼は、50才を過ぎた頃から海苔の養殖場を求めて、浦安、五井、木更津の江川、久津間の名主と交渉しましたが、当時の海苔養殖は、河口付近の浅瀬に木の枝(粗朶(そだ)ヒビ)を立て並べて、海苔のタネの付着を待つという方法だったため、漁業の障害となるという理由で、次々に断られてしまいました。しかし、文政5年(1822)、小糸川河口人見村(君津市人見)の名主は、近江屋甚兵衛の熱意に動かされ、海苔養殖を受け入れ、甚兵衛は、試行錯誤の末、人見村での養殖に成功します。その後、海苔養殖は、隣の大堀村(富津市大堀)でも始められ、明治時代にかけて木更津、五井、浦安へと拡大、東京湾沿岸は海苔の一大生産地へと発展しました。海苔の養殖は、昭和に入ると網ヒビを使った方法へ変化し、現在では海苔の採集から乾燥まで、多くの作業がオートメーション化しています。

 上総海苔発祥の地は、現在は埋め立てられ、巨大な製鉄工場群へと変化しましたが、そこで始められた海苔生産は、富津岬周辺をはじめ盤津(ばんず)干潟や三番瀬へと受け継がれ、現在も香り高い江戸前の上総海苔が生産されています。

新日本製鉄

新日本製鐵君津工場

明治時代末期のヒビ立て

明治時代末期の粗朶ヒビ立て

網ヒビによる養殖

網ヒビによる養殖

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