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更新日:令和5(2023)年5月10日
ページ番号:315128
(くぼきちくそういせき)
県指定史跡
昭和45年1月30日
香取市津宮(個人)
久保木竹窓は、下総国津宮村(香取市)の名主久保木清英の二男として宝暦12年(1762)に生まれた。幼名を新四郎、名は清淵、家名を継いで大郎右衛門といい、号は蟠龍、仲黙のほか、竹を愛したことから竹窓、竹陰、竹亭など竹にちなんだものが多くついている。
竹窓は、儒教の教えや国学、暦学、天文学などに精通し、特に民衆教育に熱心で、私塾「息耕堂」を開き、子弟は数百人に達したといわれている。また、伊能忠敬との親交も深く、「大日本沿海與地全図」の完成にも協力し、特に地図に書き入れられた小さな文字は竹窓の手によるものといわれる。国宝「伊能忠敬関係資料」のなかにある「肖像伊能忠敬」に添えた讃(絵に添える文章)も同様である。
竹窓は、文政12年(1829)68才で没した。旧宅跡は、南側が国道356号に面し、北側は利根川に面している。当時の家屋は残っていないが、久保木竹窓の遺品は県指定文化財になっている。
墓は、南側に少し離れた台地の斜面にある。墓碑は、縦2m、横1.5m、厚さ1.3cmで、水戸藩で郡奉行を務め、庶民のために学校を創設した小宮山昌秀によって竹窓を讃える文章が、渡辺崋山等とともに江戸後期の南画家である谷文晁門下の三羽烏と言われた同じ水戸藩の立原任(杏所)によって書かれている。
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