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更新日:令和2(2020)年9月19日
ページ番号:314752
(おぎゅうそらいべんがくのち)
県指定史跡
昭和32年10月21日
茂原市本納(個人)
荻生徂徠は寛文6年(1666)館林藩主時代の徳川綱吉に仕える医師方庵の二男として、江戸二番町に生まれた。延宝7年(1679)徂徠14歳の時、父方庵は綱吉の怒りにふれ江戸を追放され、家族とともに母の実家のあるこの地に移り住んだ。
徂徠は、ここで林羅山「大学解」などの漢籍を学び、後に広く群書に通じた大儒者となる基礎を築き、元禄3年(1690)父方庵が赦免されたのを機に、徂徠は25歳で江戸に父と共に戻った。
本納での若き日の徂徠は、孤独な生活ぶりをうかがわせる文章も残しており、逆境にあって勉学にいそしみ、乏しい書籍を精読したといわれる。しかし、このような生活の中での勉学により、彼の人間形成上、重要な意味を持っていたことを自ら著書「政談」の中で語っている。また、多感な青年期に独学により漢籍などの読みこなしを成し遂げたからこそ、外部の影響を受けずに徂徠独自の思想を生む基礎を形成できたとも考えられる。
江戸に戻った徂徠は、柳沢吉保に仕え、しばしば5代将軍徳川綱吉にも講義するなど幕府からも信頼されるまでになった。その後、江戸に塾を開き学問にうちこみ、古文辞学と呼ばれる学風を確立し、当時の思想に大きな影響を与えた。
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