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更新日:令和5(2023)年5月11日
ページ番号:314735
(ほんだただともしんでんかいはつもんじょ)
県指定有形文化財(古文書)
平成8年3月22日
いすみ市楽町(個人)・千葉県立中央博物館大多喜城分館保管
新田開発に係わる古文書2通。1通は慶長14年(1609)2月6日の「国吉原新田就相起定条々」で、もう1通は亥(慶長16年(1611))2月2日の「万喜原新田掟之条々」である。
近世の新田開発は、石高の増加を図るために全国的に実施された。大多喜藩主本多忠朝(本多出雲守)は、慶長14年(1609)に国吉原の新田開発を計画、古金右近に開拓を命じた。このことから、開墾当初、この地は右近原と称したという。のち、元禄11年(1698)には小国吉村と改称されることになる。また、忠朝は慶長16年(1611)にも万喜原の新田開発を行うが、その掟書になるのが2通目の史料である。万喜原は万木村のうちであるが、小国吉村も万木村も、いずれも現在のいすみ市に含まれている。
これらの文書からは、国吉原の新田開発は、溜め池の水を利用して荒れ地の開発をしたということ、新田を開発した百姓にはいくつかの特権が与えられたことなどを読みとることができる。わずか2通の文書であるが、近世初期の村落形成期において、大名が実施した新田開発の基本方針がよくうかがえる古文書としてたいへん貴重なものである。
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