ここから本文です。
ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > 文化財 > 市町村別の国・県指定および国登録文化財 > 東葛飾エリアの市 > 野田市の国・県指定および国登録文化財 > 山崎貝塚
更新日:令和2(2020)年10月7日
ページ番号:315265
(やまざきかいづか)
国指定史跡
昭和51年12月23日
野田市山崎字南新田(野田市)
山崎貝塚は、奥東京湾にあたる江戸川に面した小支谷の最奥部、標高約17mの台地上に位置する貝塚で、その存在は明治時代にはすでに知られていた。貝塚は2つの弧が向きあって谷頭の最末端を囲むように形成され、全体の規模は直径約130mで、北東及び南西に開口する馬蹄形貝塚である。
発掘調査は、古くは昭和5年(1930)大山史前学研究所により実施された。その後、昭和35年(1960)には麗沢高等学校、麗沢大学、成蹊大学などによる小規模な調査が実施され、人骨が検出されている。また、昭和40年代中頃(1970頃)には、野田市郷土博物館、野田市教育委員会により、本格的な発掘調査が実施され、それ以後も小規模ながら、野田市教育委員会により何度かの発掘調査が行われている。
発掘調査の結果、貝層ではオキシジミ、ハマグリ、サルボウ、マガキ、アサリ等の鹹水(かんすい≓海や塩湖などの水域)産の貝が多く検出されているが、汽水(きすい=海水と淡水が入り混じる水域)産のヤマトシジミを主体とする貝層もある。出土遺物としては、約5,000年前の縄文時代中期から約3,000年前の晩期前葉に至るまでの各時期の土器、磨製石斧、打製石斧、石皿、磨石、凹石、石鏃、浮子、軽石といった多種多様な石器も多く出土し、漁撈用の網の錘に使用されたとされる土器片錘も多数出土している。貝層付近を中心に住居跡が多数確認されており、この貝塚は貝層付近に集落の中心部をもち、長期間営まれ続けたことがわかる。
関連リンク
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください