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更新日:令和5(2023)年12月26日

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「ちば文化的景観」(3)印旛沼の恵みとニュータウンのゾーン

1.成田市成田山新勝寺の門前町景観

成田市成田山新勝寺の門前町景観成田山新勝寺は、戦国時代、16世紀後半以前に現在の場所に移動してきたと考えられ、江戸時代には江戸から多くの参詣客が訪れた。江戸時代の中頃からは、参詣客が利用する旅館や商店が作られ門前町が栄えるようになった。現在の門前町には、昭和初期の建物が多く残され、伝統の門前町の雰囲気を味わうことができる。

2.印旛沼とその周辺の里山景観(佐倉市、成田市、印西市)

印旛沼印旛沼は、佐倉市・成田市・印西市にまたがる沼である。江戸時代初期から、いく度か干拓事業が実施され、洪水により失敗してきたが、18世紀後半には、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)により大規模な干拓が行なわれたことは有名である。戦後の干拓事業により、現在、印旛沼は北印旛沼と西印旛沼に分かれた形となっている。沼の周囲には、干拓事業により生まれた大規模な区画の水田が広がり、沼上では定置網漁などが盛んに行なわれている。印旛沼は、歴史とともにその姿を変えているが、下総台地の里山に囲まれたその景観を現在も残している。

3.佐倉市佐倉城下の城下町景観

佐倉市佐倉城下の城下町景観江戸時代の佐倉城は、土井利勝の居城として慶長15年(1610)に築かれ、江戸時代を通じて松平、大久保、戸田、稲葉、堀田氏など譜代大名の居城となった。城の西側には、武家屋敷が集まる旧武家町、商家や寺院が並ぶ旧商人町、旧寺町が作られている。現在も江戸時代の城下町絵図とほとんど変わらない町割が残され、近代医学発祥の地・順天堂(じゅんてんどう)医院、県指定文化財の武家屋敷・河原家住宅、旧川崎銀行佐倉支店などが存在する。

4.八街市の屋敷林と畑地景観(八街市南部の防風保安林と落花ぼっち)

らっかぼっち江戸時代、八街市内の台地上には、広大な江戸幕府の直轄牧(ちょっかつまき)(軍馬の飼育施設)が置かれていたが、明治時代、この牧は畑として開墾され、主に落花生栽培が行われてきた。台地上を吹く強風から、落花生等の農作物や屋敷を守るためにスギやマツの防風林が作られている。台地に広がる畑地や屋敷は防風林の緑にかこまれ、畑には落花生を積み上げた「落花ぼっち」が並ぶ独特な景観が広がる。

5.白井市平塚地区の水田と集落の景観

白井市平塚地区の水田と集落の景観平塚地区は、手賀沼沿岸を干拓した水田地帯と、手賀沼に望む台地から成り、台地には谷が刻まれ、里山と谷津田の景観が残されている。江戸時代初期、手賀沼のほとりには、舟戸河岸(ふなとがし)があり、利根川から直接入る鮮魚を運ぶ鮮魚道(なまみち)が発達したところでもある。

6.白井市今井の水塚のある集落景観(水塚は、白井市指定)

白井市今井の水塚のある集落景観手賀沼に流れ込む小川「金山落(かなやまおとし)」に沿った低地に広がる今井地区には、手賀沼の氾濫対策として築かれた水塚(みづか)が11基存在し、その内7基が市指定文化財となっている。現在、手賀沼は水門が整備され大きな氾濫が起こることはなくなったが、昭和13年と16年の氾濫の際には、水塚は水が引くまで家財道具を保管し生活する場所として、重要な役割を果たした。かつての手賀沼の氾濫を伝える集落景観である。

7.富里市中沢四ツ塚・四ツ又弁天の水田景観

富里市中沢印旛沼に流れ込む高崎川とその支流が合流する付近の谷に広がる谷津田(やつだ)の景観である。合流地点付近の谷の形が十字の形をしているので、四ツ又の名が付けられている。現在では、土地改良事業によって田の形は変化しているものの、特徴的な地形とあいまって、印旛沼南岸に広がる谷津田景観の代表的な例といえる。

8.酒々井町本佐倉城跡と成田街道酒々井宿の町並み景観

成田街道酒々井宿印旛沼に面する国指定史跡・本佐倉城は、室町時代の15世紀後半に築かれ、天正18年(1590)に千葉氏が滅亡するまで、千葉氏の居城であった城である。江戸時代には、本佐倉城の東側を成田街道が通り、街道に沿って酒々井宿が作られた。酒々井宿には幕府の直轄牧・佐倉牧(さくらまき)の管理者の屋敷が置かれる一方、成田山新勝寺への参詣者が宿泊して賑わった。現在も当時の寺社や町並みが残され、往時の成田街道の賑わいをうかがうことができる。

9.栄町布鎌・印西市埜原の水塚のある集落景観

栄町布鎌・本埜村埜原の水塚のある集落景観印旛沼と利根川をむすぶ、印西市・栄町の将監川・長門川沿いの低地は、古くから洪水に悩まされてきた。この地域では、江戸時代末期以来、屋敷の一角に高さ3m程度の水塚と呼ばれる塚を築き、洪水の時は、ここに建てられた水屋(みずや)に避難し生命や財産を守ってきた。現在では、洪水の危険性は少なくなったが、広々とした水田の中に、島のように水塚のある屋敷が点在する景観が残されている。

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