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更新日:令和6(2024)年4月1日

ページ番号:429122

知事定例記者会見(令和3年3月25日)概要

知事発言へ質疑応答へ

日時

令和3年3月25日(木曜日)10時30分~11時17分

場所

本庁舎1階多目的ホール

動画 令和3年3月25日知事定例記者会見(動画)

項目

  1. 3期12年を振り返って

3期12年を振り返って

(知事)

3期12年振り返ってということで、室長のほうから、好きなだけしゃべってくれというので、ちょっと長くなるかもしれませんが。また、せっかくですから、私、あまり皆さんにお話ししてなかったことを最後に話そうかなとも思っております。

まず、1期目でございます。これは何といっても私の一丁目一番地、公約でございましたアクアラインの通行料金800円化、これが成功した、達成できたことでございます。これにはいろいろな話があるんですが、実はあのときに始まったことではないんです。これは、今の菅総理が本当に尽力してくださいました。菅総理がいなかったら実現できなかったです。

私、菅総理と、もう20年なんですよ。菅総理の「政治家の覚悟」という本の中に書いてあるんですね。アクアラインのことを書いているんですよ。私と委員会でやり合ったことを。当時、菅さんは大臣政務官でした。菅さんは、以前からアクアライン料金は高過ぎると目をつけていた。アクアライン通行料金は現行の3,000円から2,000円ぐらいまで下げてもっと使ってもらうべきだと各所で述べました。国会の委員会で森田健作議員が私に対して、予算にこだわって料金を下げない意見と、料金を下げて利用者を増やすことで収支を上げる意見があったとすれば、あなたはどちらを取りますかと質問がありました。せっかくつくったものですから、皆さんに利用してもらう利便性の向上やそれによる経済波及効果のほうが大事だろうと思いますと。そして私はさらに、何のためにこのアクアラインをつくったのか等を話したのでございますが、これを大臣政務官のときに今の菅総理が自分の本に書いたんです。実はこのときからアクアラインのことが私の頭に入っていたんです。私は当時、東京4区の衆議院議員でございました。

そういうことから始まって、実際に私はアクアライン800円を掲げて挑戦しました。それで当選して、私は当時、麻生総理が判こを押してくれなかったらこれはできなかったですから、本当に、まさしく麻生総理と今の菅総理のおかげでございます。

その麻生総理が、私が行ったときに、私、昔からかわいがってもらってたもんですから、「おう、森田、おまえよかったな」と。「総理、ありがとうございます。で、あのう、お願いがあるんですが」「何だ、森田言ってみろ。お祝いだ」って言うんですよ。「そうですか。アクアラインを800円にしてください」と。「なに? ばかやろう、おまえ何言ってるんだ。あれは3,000円だぞ。3,000円が800円なんかにできるわけないじゃないか」と、反対に怒られました。でも、私負けなかったんですね。「いや、総理、アクアライン、あんなの3,000円だの何だのって言ってんだったら、もう要らないから、ぶっ壊してください」って言った。そうしたら「おまえ、森田、何を言ってんだ」と、またこれで怒られましてね。そうしたら、隣にいた今の菅総理が「麻生総理、森田さんも国会議員時代、一生懸命頑張ったんだから、何とかみんなで考えてあげましょうよ」と言ってくれたのが事の始まりなんです。

そして、それからほとんど毎日のように、アフターファイブですよ、夜になってからずーっと会いに行って、いろいろ話をして、千葉県の実情、それから、いかにこのアクアラインが経済、そして首都圏に貢献するかということを話しまして、そして煮詰まっていったんです。

でも、そのとき私思いましたね。大きな案件ほど静かに静かにやっていかなきゃいけない。パフォーマンスをやってはいけないんですよ。これね、パフォーマンスをやって、私が竹刀を持って官邸に行って、800円にしろ、こうだ、こうだと。そりゃ皆さん面白がってどんどんつくりますよ。絵づらも出ますよ。ペンも走りますよ。でも絶対結果は出ません。ですから、私は何を言われても、「なんか森田知事、官邸内でチョロチョロしてるんだって」なんて言われたこともありましたが、「いやいや、とんでもない。いつもご挨拶ばかり行っています」と言いながら最後の最後まで。当時、麻生総理と今の菅総理と3人で、「これで決まったな」とワインで乾杯したことを今でも覚えております。そのようなことから、このアクアラインというのが始まったんでございます。

それで、麻生総理がそれから間もなく、「ところで俺はアクアラインって見たことないんだよ。海ほたるってあるのか」「ああ、あります。ぜひいらっしゃってください」と。それで海ほたるへ来て、またそのとき青空で晴れてたんですよ。そうしたら、私に、「おい、森田、このアクアラインすげえじゃないか。だったらおまえ、青春って言うんだったら、ここ走ってみろよ」と。それで、あっ、マラソンだ。アクアラインマラソン。ここから私考えつきまして、それから、職員の皆さんには大変ご苦労をかけちゃったけれども、アクアラインマラソンが始まったのでございます。

そして、御案内のとおり、本当に木更津をはじめとして袖ケ浦、君津、市原と、あの辺の房総は非常に光が当たりまして、地価も上がりました。人口も増えました。それから、いろんな商業施設も大変増えました。これは本当によかったなと。でも、面白いですね、皆さん。はじめあれが800円になったといったときに、あるテレビ局のワイドショーが、1週間後かな、木更津を映すんですよ。「皆さん、800円になったって、どうですか、これシャッター通りじゃないですか」って言うわけです。そんな、800円になって1週間でシャッターが開くわけないじゃないかと思ったぐらいでございますけれども、そうかと思うと、「800円になったって、ストロー現象と言って、全部神奈川に吸い取られていっちゃうよ。森田は何考えてるんだ」とか、さんざん私言われましたけど、でも、今いい結果が出てよかったんです。

でも、これは皆さん、本当は大変苦しいときだったんです。民主党政権の頃ですよ。あるとき政務官の方が東京事務所へ来て、「森田知事、あのアクアライン800円、あれやめますから。続けるんだったら、千葉県で出してください」と、そういうことです。私ね、本当にめったに怒ったことないんですけど、あのときはじめて、職員の方がいたけどしょうがない、私、机叩きましたよ。ふざけるなと。「俺はこのバッジにかけても800円を守る。前原大臣に言ってくれよ。森田がこう言ってた」と、こう怒鳴りました。そうしたら、その政務官の方は、「いやいや、私はメッセンジャーですから、ただ伝えに来ただけですから」と言ってお帰りになりましたけれども。

それから私、前原さんと話しました。前原さんは、参議院の頃、ゴラン高原に一緒に行ってるんですよ。まだ前原さんがさきがけの頃ですよ。一緒に行って、1週間ぐらいですかね、イスラエルだとかあの辺を寝食共にした、そういう仲でございます。ですから、そのようなことも話して、よく心は知っていましたから、分かったと、森田さん、じゃあこれはまだ続けましょうと、そのような大変危険なときもあったのもまた事実なのでございます。

しかし、何といっても、800円というのは私は本当によかったと。でもね、これは森田健作がやったわけじゃないんですよ。やっぱり当時の麻生総理が判こを押してくれて、これをまず、がんがんやってくださった。今の菅総理がやってくださったんですよ。私は本当に感謝しているし、そしてまた千葉県民の皆さん、当時800円運動というのがあって、本当に頑張ってくれていました。嘘八百なんて言われてたんですから。そういうことがあったんです。

でもまた面白いことに、菅さんが当時私のところに来て、「森田さん、あれな、800円って言うけども、1,000円限度だぞ」って言うんですよ。「1,000円ですか」「ああ、これ1,000円でいいじゃないか」と。「でもねえ、菅先生、大根だって1,000円と980円じゃ全然印象が違うんです。何とか800円にしたい。それと地元で嘘八百なんて言って揶揄されている。その人たちが800円って言ってるんだから、何とか俺の顔を立てて、これ800円で頼みます」って私話して、それで800円にしていただいたんでございますが、本当に、私は俳優の時代からそうです。国会議員になっても、知事になっても、本当に皆さんの友情に助けられて、お金は使えばなくなりますけど、友情は使えば使うほど増えるなということを実感しているところでございます。1期目のときの大きな私の一丁目一番地、アクアライン800円でございます。

それから、1期目でまだいろいろやっているんですよ。移動交番車、これは今現在60台、専従警察官120人、移動交番相談員60人の体制で運用しています。何で移動交番なんて考えたか。これまた歴史があるんですよ。私の父親が警察官、刑事でした。退職前は蒲田の交番にいたんですよ。映画になりましたが「砂の器」の舞台ですよ。そこで、まだ私、小学生だったな。交番に弁当を持って行ったことがあるんですよ。そして、いろいろなことを話しているうちに、「この辺も最近物騒になってきたからな、本当はもっと交番があればいいんだよな。だから危ないところは必要なときにこの交番が動いて行けばいいんだ」と。「交番が動いて行けばいい」、これが私、頭に入っていたんですよ。それで私は、よし、交番を増やせないときには、そうやって移動することがあったらいいなというのが頭に残っていたもので、私は知事になったときに移動交番というものをお願いしたんですよ。はじめは5台ぐらいから始まったのかな。言うなれば交番の出前みたいなものですよ。「皆さん、どうですか。最近この辺何かありますか。どうですか」と言って、あるときは公園にお店を開いて、車を置いて皆さんのいろいろな話を聞いたりする。こういうことをやって、非常に皆さんから評価されました。また、東日本大震災のときは、皆さん、交番だってみんな流されたんですから、そのときに千葉県から10台かな、移動交番が応援しに行ったんでございます。そんなようなこともございました。

それから、トイレの整備。千葉県というのは人情もあるし、風光明媚だし、海の幸、山の幸、うまいよと。ところが、私、トイレが何でこんなに汚いんだと言ったんです。ある名所のところに行ってトイレに入ったら、便器が壊れているんです。おかしいだろうと。もちろんきれいなところもありますよ。でも、そういうところは、やっぱり観光立県千葉とするならば、清潔、そして、まず公衆のお手洗いからそういうことをやっていけば、必ず民間の方々もまねしてくれるし、それに対して県も補助していけば、絶対に清潔な千葉県になるんだと。今は360か所かな、整備をしたのは。

(職員)

今年度末で320か所です。

(知事)

特に女性。私は女性が好むトイレにならなきゃ駄目だと言ったんです。やっぱり、女性が「ああ、このトイレちょっとね」と言われるようなところは駄目だと。そういうことをはじめに言ったときは、なかなか理解はされなかったんですが、どんどんやっていくうちに理解をされて、やっぱりお手洗いきれいだよね。この間、アジアの方が来てくれて、お手洗いのところで写真を撮っていたとか、そんなようなお話を民間の事業者から聞くと、よかったなと、そう思ったんでございます。

また、子供医療費助成拡大、私学助成の拡充。私学助成も在任前は、例えば高校でいきますと全国で44位でした。でも、3期目のときには11位になりました。それから、中学が38位から13位、小学校は26位から8位、幼稚園が36位から12位と、私学助成の拡大をしてまいりました。やっぱり私学というのは大変重要でございます。できる限りの応援をしていかなければならないと、そのように思っております。

あとは、千葉ならではの道徳教育の推進。

あと、北総運賃の値下げ。これはまた面白い。あんまり話さないんですけど。前原大臣と北総鉄道の料金を、はじめ私は10%下げたいなと思ってやっていたんですが、前原大臣にひとつ頼むよと言ったら、これは民間だからあんまり国のほうが何だかんだ言えないと。そうですかと。でも、どうしても最後の詰めになってきて、何とかこれはやろうと私も思いまして、前原大臣に最後は直談判ですよ。2人だけである会場で、いかにここが大事かということを話して、何とか頼むと。前原さんという方は非常に真面目で実直な人なんですよ。だから私は大好きなんですがね。私が3期目に当選したときも、お祝いの会をやってくれた人ですよ。そういう人なんです。それで、私は何しろ2人だけで話して、いかに重要かということを話せば分かってくれると、そう思って、全くゼロだったのが普通運賃約5%。それから、通学定期、これが大事なんですよ。私はこれを強く言ったんです。通学定期25%。通勤定期は約1%ですけれども、5年間値下げの実施と、こういうふうにつながったわけです。これはまさしく国会議員時代に、皆さんと仲良くやってきたといいますか、気心が知れていて、それが本当によかったなと、そのように思いました。

2期目でございます。オリンピック・パラリンピック。これはもう森会長に助けられました。はじめ私が知事になったときは、千葉県は1競技もなかったんですからね。冗談じゃないと。それでお願いをして、8競技を持って来てくださいました。はじめ7競技で、最後の1競技はサーフィン。サーフィンは、実は神奈川の湘南で大体が決まっていたんですよ。何とかこれを外房から房総を盛り上げるためには、これを持ってきて光を当てなきゃ駄目なんだと。私もいろいろなことをやったけれども、決定打がないんですよ。だったらここで思い切り光を当てるのは、もうオリンピックしかない、サーフィンだということで、森会長にいろいろとお願いしまして。さんざん、「ばか言ってるんじゃねえ」と怒られましたけれども、昔から私は怒られてばかりいたので慣れていましたので、ひとつよろしくという話になって、それと同時に地元の人たちの頑張り、また、本当に波が大きくて非常にいいということで、一宮町に決まった経過があります。これは大変うれしいです。

それから、安心・安全、防犯ボックス。これも地域の人たちに非常に愛されました。

それから、トップセールス。地産地消はもちろん大事ですよ。それと同時に、千葉県は農林水産物だって何だってすごくいいものがあるんですよ。身近な東南アジアの人にもっと食べてもらおう、もっと紹介しようということで、私、トップセールスをやりました。

それから、農産物の輸出促進。タイだとかマレーシアとかシンガポール、いろいろ行きましたけれども、私、役者であったことを、本当にあのときよかったなと思ったんですよ。俳優でよかったなと。タイ国でシリントーン王女様が、私がだめもとで、1か月ぐらい前かな、お会いさせていただけないでしょうかとお願いしたら、会ってくれるというんですよ。えーっと、大使館のほうも驚いていたんですけど。たまたま中学生の頃、私の青春ドラマ「俺は男だ」、向こうでは「ケンドウ」というタイトルで流れていたらしいんですが、それを見ていてくださったと。そういうことで、その後タイに行っても、閣僚の方がちょうど私のそれを見ていた年齢で、その頃のビデオを流してくれたり、大変な歓迎をしてくれました。あのときに、ああ、役者をやっていてよかったなと、それに感謝をしていたところでございます。何しろこれからも、日本という国は、特に東南アジアは親日のところが多いですから、これを大事にしていかなければならないと思います。

それから、教育大綱、待機児童対策等をやりました。

そして、3期目でございます。成田空港のさらなる機能強化。成田空港というのは、千葉県の経済にとっても大変大きなものでございます。成田空港が発展の鍵を持っているといっても過言ではありません。しかし、皆様も御案内のとおり、悲しい歴史もあります。しかし、何としても次世代のためにも機能強化をしなければならないということで、私たち頑張りました。特に最後の9市町の関係者の御同意を得るということで、お辞めになった県の遠山部長さんが、自分の任期2週間ぐらいしかない。ところが、あるところの首長さんがどうしても同意してくれない。何を言っているんだと。もう日にちないぞ。これをやったら、あんた歴史に残るんだよ。これができるのはあんたしかいないよ。俺の出番をうまく考えて、それで舞台をつくってくれ。俺は最高の舞いをしてやるから、やってくれと。

それで彼は本当に決めてくれて、最後は公民館みたいなところで、関係者を集めてくれました。私は土下座してお願いしましたよ。何とか頼みますと。私はね、やっぱり職員というのはすごいなと。偉そうなことを言ったって、人間一人でできるわけないんですよ。ですから私は、チームというのは、それぞれの持ち場持ち場が、みんながファーストクラスジョブをやれば、すばらしい豪邸が建つと、そのように私はいつも思っているんです。ですから、私は本当に職員の皆さんに感謝しているところでございます。

それから、外国人介護人材支援センター。これは、介護分野に就職を目指す留学生に何とか日本に来てもらいたいということで、私はベトナムのフック首相と会談をして、そして協定まで結びました。そしてまた、これは私がおかしいんですけれども、初めて会ったときから私はフック首相にハグしまして、そうしたら、向こうは驚いていましたけれども、ああいう国ですから。それからいろいろ話して、帰りには反対にハグされましたけれども、そういう関係が続いて、G20のときに日本に来て、安倍総理がお会いして、その後帰るというときに、千葉県と会おうということで、20分間ぐらいお会いさせていただいて、そのときに私は、外国人介護人材支援センターを必ずつくりますよと言っていて、ちょうどまたついていて、その日がオープンだったんです。そのことを言ったらすごく喜んでくれて、森田はちゃんと約束を守ると言って褒められましたけれども。

それから、がんセンター新棟オープンでございます。がんというのは、これから2人に1人はかかるというんだから。それと、私、がんセンターの視察をしたときに、狭隘化していて何しろ狭い。通路のところにカーテンを引いて、そこで患者さんと話をしているなんて、こんなことあっちゃいかん。そして、お医者さん、看護師さんがどういうところで休憩するんだといったら、更衣室の端のほうでコーヒーを飲んでいる。駄目だよ、これはと。お医者さんでも看護師さんでも、ちょっと休むときには、カフェテラス風のものをつくりなさいよと。そこでちょっと心を休めていただいて、また次の患者さんと、こうしなきゃ駄目じゃないかというようなことを何しろお願いしました。それは、その前にタイの総合病院を視察していたものですから、そのときのすばらしさを頭に入れていたものですから、それをお願いして、何とか新棟オープンにこぎ着けたところでございます。

あとは、千葉港の整備促進、児童相談所の機能強化、いろいろ長々と話してしまいました。

それから、私、しょっちゅう言っているものですから、皆さんも飽きているでしょうけれども、道路ネットワークの構築。これはやっぱり千葉県の10年度、20年後、30年後を考えたら、今やらなければならないですよ。北千葉道路、令和3年度新規事業化。これは本当によかったなと。県土整備の河南部長、根回ししていろいろ頑張った。私も総理に何とかお願いしますよと言って、本当にスピード感を持ってくれました。森田がいる間に何とか考えてやろうという気持ちもあったかもしれませんが、いずれにいたしましても、私は道路ネットワークの構築は、将来の千葉県の経済の発展にどうしても必要だし、これは言うなれば、人間でいえば血管みたいなものですよ。動脈ですよ。私は第二湾岸の道筋、動線もつけましたし、後半になってこういうことができたということも、チーム森田で、本当に一生懸命職員の皆さんが、私の見えないところで頑張ってくれた、その成果だと心から感謝しているところでございます。

長々としゃべりました。これで全部終わりかな。質問もないかな。

質疑応答

(記者)

よろしくお願いします。3期12年お疲れさまでした。くしくも今日からオリンピック・パラリンピックの聖火リレーが始まります。8競技を誘致された県の知事として、この競技まで自分の手でやりたかったとか、その辺りの思いをお聞かせください。

(知事)

そりゃあやりたかったよ。何としても、我が千葉県がゼロなんていうことはあり得ないと。それはもう、森会長はお辞めになってしまいましたけれども、大変なお力を頂いたわけですから。でも、それもまた運命かなと。それにいつまでもこだわっているんじゃなくて、それよりも、そういう気持ちは自分は新たなほうに、前を向いていかなきゃならない。それと、この8競技、ぜひとも我が千葉県において成功させてほしいなと、そのように思っております。

(記者)

もう一点お伺いします。先ほど、10年後、20年後の将来を見据えてというお話がありましたが、今後、県民にはどういう県民生活を送っていってもらいたいか。

(知事)

今、コロナですよ。本当に心がめいるし、どうしても下向きになってしまいます。でもね、これは私いつも言うようですけれども、どんな長いトンネルでも必ず出口はあるんだと。その出口に向かって、出たときに思いっきり光を浴びるんだと、思いっきり前を向くんだと、未来に向かって頑張るんだと、そういう気持ちを持つことは大事なんです。ですから、今はつらいけれども、何しろこれを乗り越えようやと、必ず次はいいことがある。悪いことで終わることはないから。あとは自分が気持ちの持ちようですよ。だから、言ったように、これは今我慢することは、春を何とか楽しく、春の日差しを浴びるための準備なんだぞと、そのように思うと、それは100%なくなりませんけれども、20%ぐらいは気持ちが楽になる。私はそのように思っておりますね。

だから、県民の皆さん、これは私が偉そうに言うことではなくて、どんなスポーツ選手でも偉業をやった人って必ず言いますよね。諦めるなと、ずっとその気持ちを持ち続けろと。私はまさしくそうだと思いますよ。諦めないですよ。

私は、俳優の頃、一俳優が一つの映画をつくるなんていうことは、企業の社長になったようなもんですよ。私はそのことを19歳のときに思って、実際に実現できたのは12~13年後ですよ。ずっと思っていました。毎日台本を書いていましたよ。諦めないからできて、その後、トータルで4本できた。だから、諦めないということは大事です。

それと、けつまずいて転んで、いつまでもこの石がこんなところにあったから俺はけつまづいたんだとか、何だあいつは、あいつがあんなことを言ったから俺はけつまずいたんだとか、愚痴を言ったり、人の批判ばかりしているやつは駄目。倒れてもすぐ立って、「よーし、俺は明日に向かって頑張るぞ」と言っていると、私の経験上からいくと、光があるね。

最近、劇場型というのか、そんなようなのもあるだろうけれども、人を批判したり喧嘩するより、みんなで笑って楽しく、大して人間なんて生きやしないんだから、面白くやろうや、こう言うんですけどね。そう言うと、森田健作って全然変わらないやと。そうですよ。俺はいつまでたっても青い人間でいるからなと、こう言うんです。

(記者)

ありがとうございました。

(記者)

最後の定例、今までどうもありがとうございました。

(知事)

どうもありがとう。お世話になりました。

(記者)

定例なので、記者会見で記者とのやり取りというのはいかがだったのでしょうか。何か思い出深いものがあれば教えていただきたいと思います。

(知事)

あのね、やっぱり記者さんというのは、私から見て、非常に勉強して来ている記者さんと、言うなれば、一部の週刊誌をうまく抜粋してやっている記者さんとかは、大体分かりますよ、私たち。こう見ていて、なるほどなと。でもそんなこと言ったって、じゃあ俺だって100%やっているかというと、職員さんが一生懸命覚えてやっているわけだから、俺も偉そうなことは言えないよ。でも、記者さんというのはやっぱりそれぞれの個性を持っている。ただ一つ言えることは、その人の持っている情熱とか正義感とか、そういうものがある時、瞬間にぱっと出るときがあります。それを見つけると俺はうれしい。親近感を持ちますね。

(記者)

ありがとうございます。あともう一問だけ。政治家としても30年御活躍されていて、もしかしたら節目を迎えられるかもしれないですけれども、一回30年を振り返って、今のお気持ちをお願いします。

(知事)

俺はね、よくできたと思うよ。だって皆さんもそうでしょう。18歳から俳優になって、希有な人生ですよ。それからアイドルにもなったし。映画もやった。舞台もやった。参議員をやって、衆議員をやって、そして知事をやらせていただいた。でも私、自分でも驚くんですよ、よくやれたなぁと。私の昔の友人なんかがよく言うんですよ。健ちゃんの一番似合わない職をやっているなと言うんです。一番似合わないと言うんですよ。そうか、でも今取りあえず頑張っていると言うと、これからが見物だよなんて言ってます。そいつが、よく最後まで取りあえず頑張ってきたなと褒めてくれますね。だから私は、今振り返ってみても、まさにみんなに助けられてきたなと。

それと、私、いつも心に言っているんです。記者さんもあるでしょう。自分はこの記事は正しいと思って書いていても、「何なんだ、こんなのは」とか、いろいろ批判されたり、駄目だよということもあるじゃないですか。でもこれは正しいんだ、こうなんだと。やっぱり心めげるときがあるじゃないですか。私もそうですよ。でも、私がいつも自分の心に言っているのは、「正義が勝つには時間がかかる」、そうやって自分を叱咤激励しているんですよ。

でもね、正義が勝つには時間がかかる。本当に時間がかかるんだよ。俺は本当に20年ぐらいかかったものもあるよ。でもな、実現したときはうれしいぜ。大体間違っていないね、私。自分の生き方というのは、一番揶揄されるタイプなんですよ。いい年をして何だ、青春だとかばかじゃないか、とかね。「じゃあ、おまえやってみろよ」と言ってやるんだよ。

やっぱりせっかく生を受けてきたんですから、自分のやりたいこと、自分の思いを突き進んでというのかな。出る杭は打たれるんだよ。出過ぎた杭は打たれねぇぞ。思い切り俺は出過ぎてやる。だから俺は青春の巨匠だと。今日はちょっとしゃべり過ぎたけれども。これは講演でやろうかな。まあ、そんなところです。

(記者)

ありがとうございます。

(記者)

1問だけお願いします。今後の千葉との関わり方というか、改めて今後これからの人生でいろいろなことをやられていくと思いますけれども、改めて千葉とどう関わっていきたいかとか、千葉をどういうふうに見ていきたいかというのを教えてください。

(知事)

正直言って、取りあえずちょっと休みたいという気持ちもあります。私ね、俺がこうやってきたからこうやれとか、相手を縛るのが嫌いなんです。ですから、みんなそれぞれ選ばれて来ているんですから、自分が思うことをびしっとやってくれればいい。それで、私は千葉が大好きですから、自分なりに千葉を愛して、そして、千葉のいいところをどんどん皆さんに広げていきたいなと、そのように思っております。

(記者)

よろしくお願いします。知事選挙が終わって3日ほどたちます。新しい知事へのバトンタッチの日も近づいていますけれども、熊谷さんに対して改めての森田知事の、首長として、政治家としての印象をまずお聞かせいただけますでしょうか。

(知事)

私、関さんは県会議員でずっと10年近くいろんなことをやっていたのでよく分かるんですけれども、熊谷さんはあまり付き合いがないものですからね。ただ、客観的に見ていて、小池都知事と似ているなと思うときもよくありますね。何しろ頑張ってくださいと、そういう気持ちです。

(記者)

小池都知事と似ていらっしゃるというのは、どういうところでお感じになるのでしょうか。

(知事)

それはまあ、それぞれ皆さんお考えください。

(記者)

その上で、知事は12年間千葉県の知事として600万県民のいるところをやってきたわけですけれども、千葉県の知事にはこれが一番必要だ、ここは絶対に譲ってはならないというところがあればお願いします。

(知事)

そうですね、やっぱり責任はトップにということです。それを人に転嫁したり、例えば、俺がこうなったのはあいつがこういうことを言ったからだとか、こうやったからだとか、そういうことは私は持たないほうがいいと思います。もちろん、そんな偉そうなことを言えた義理じゃありませんけれども、でも私はそういうことを胸に頑張ってきたつもりでございます。そりゃあ人間ですから、失敗もあるんですよ。でも大事なことは、同じ轍を踏まないということです。失敗しない人間はいないんですから。

(記者)

ありがとうございます。

(記者)

昨日の夜、首都圏の4都県知事のテレビ会議がありまして、終わった後に小池都知事から御苦労さまというようなお話、ほかのお二方からもお疲れさまというお話がありました。このコロナの関係で、知事の12年の最終盤は首都圏の連携がとても大事だったと思うのですが、この首都圏の連携、ちょっと足並みが乱れたなというときもあったのですけれども、ちょっと振り返っていただきたいと思います。

(知事)

政治家というのは、それぞれの手法があると思うんです。それがうまく合うときと合わないときがあると思うんですね。その辺は大事だと思います。それと、やっぱりお互いに信頼するということも大事だし。それともう一つ、1都3県というのはみんな環境も違うし、状況も違うんですよ。ですから、合うところは合わせればいいし、合わないところは無理に合わせようとすると必ず問題が出てくると思います。だから、今、1都3県はいい方向に向いているんじゃないですか。そのように思います。

(記者)

何か感謝の思いみたいなものはあるのでしょうか。

(知事)

もちろんありますよ。小池都知事はああやって主導権を取っていろいろやってくれました。そりゃあ、あるときは、おいおいと思うときもありますよ。でも、一生懸命やっていたことは事実です。それは各県の、黒岩知事もそうだし、大野知事だって、一生懸命やっていないやつはいないんですよ。みんな一生懸命やっているんです。ですから、そういう中で丁々発止もありました。でもそれは、私はいろいろなところでいい結果として出ているのではないかなと。そういうことにおいて、千葉県も恩恵を受けているところもありますから、それは感謝しております。

(記者)

ありがとうございました。

(記者)

3期12年、どうもお疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

任期中は最初リーマンショックから始まり、東日本大震災、それから台風、コロナ禍と、災害が多い12年でありましたけれども、災害対策の点ではこの3期12年をどのように振り返られますか。

(知事)

千葉県というところは、どちらかと言うと災害の少ないところで、確かにそういう隙があったことは事実です。ですから、私はしっかりと反省して同じ轍を踏まないということで、去年の房総台風を含めて、反省の上に立ったしっかりとした防災システムを県として、チームとしてつくってありますから、今度の人は楽だと思うよ。

(記者)

その同じ轍というところで言うと、次の方にはどの点で同じ轍を踏まないでいただきたいと思いますか。

(知事)

それは次の人が考えるでしょう。でもいい舞台はつくりましたから、あとはどうするかです。

(記者)

そこは次に一任したいと。

(知事)

そういうことでしょう。私のできることは全てやったということです。

(記者)

3期12年、お疲れさまでした。

(知事)

ありがとうございます。

(記者)

最後の質問のようなので、総括として伺いたいと思います。3期12年を振り返りまして、知事御自身で自分の点数をつけるとしたら何点でしょうか。その理由もお聞かせください。

(知事)

それはよく言われるんですけどね、多分僕の腹の中で言うのと、今言うのとは違うと思いますよ。腹の中はやっぱり甘くなりますからね。でも、それは別として、自分のベストというか、120%、130%、身の丈以上の仕事はさせていただいたと、そのように思っております。

(記者)

ありがとうございます。

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