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更新日:平成29(2017)年3月1日

23.『南総里見八犬伝』と房総里見氏の城跡

房総を舞台とした戦国物語と緑に囲まれた城跡群

戦国の房総を題材とした大作

 『南総里見八犬伝』は、「仁義礼智忠信孝悌」の玉を持つ八犬士が、房総の戦国大名・里見氏の危機を救う物語で、滝沢馬琴(たきざわばきん)が文化11年(1814)から28年の歳月をかけて仕上げた大作です。この物語は、勧善懲悪という痛快な内容から、出版された江戸時代以来、時代を超えて多くの人々に親しまれてきました。昭和48年(1973)から2年間、NHKの人形劇でも取り上げられ、房総里見氏の名は、子どもたちの間にも知られることになりました。

戦国大名・里見氏とその城跡

 里見氏は、本来は上野国の里見(現在の群馬県高崎市内)を本拠とした源氏の支流・新田氏の一族です。里見氏が、南房総に本拠地を置くきっかけとなったのが、鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間で争われた享徳の乱(1455年~1483年)でした。鎌倉公方側の里見氏と武田氏(甲斐武田氏と同族)は、上杉氏の勢力圏であった上総国と安房国に侵攻、安房国に入ったのが里見義実(さとみよしざね)とされ、南総里見八犬伝のモデルとなった人物です。ただし、房総里見氏の中で歴史資料から実在が確認できるのは、15世紀末期から16世紀初期に活躍した里見義通(よしみち)からで、館山市の稲村城を居城として安房国の戦国大名としての基盤を築いていきました。

 ところが、16世紀前半の天文2年(1533)、義通の子・義豊(よしとよ)と義通の弟・実尭(さねたか)、その子・義尭(よしたか)の間で「天文の内乱」と呼ばれる内紛が起き、義尭が相模国小田原城の後北条氏の助けを受けて、義豊を討ち取るという形で決着します。家督を継いだ義尭のもと、里見氏は上総国まで勢力下に加え、君津市の久留里城に居城を置きます。義尭の子・義弘(よしひろ)、その子・義頼(よしより)は、後北条氏との争いの中、富津市の佐貫城、南房総市の岡本城に拠点を置き、上総の大部分と安房を支配下に治め、最盛期を迎えます。特に岡本城は、東京湾に面して立地し、鎌倉まで攻め入った里見水軍を指揮する「海城(うみじろ)」としての機能も備えていました。

 豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした直後、天正19年(1591)頃、義頼の子・義康(よしやす)は居城を館山城へ移し、館山湾に面した新井浦を港として城下町を建設、この城下町が現在の館山市街地の原形となっています。義康の子・忠義(ただよし)で里見氏は改易となりますが里見氏の足跡は現在まで残されているのです。

里見義成絵図

里見義成と敵将安西景連の首を取った八房(月岡芳年筆)

稲村城跡

里見氏の居城・稲村城跡の遠景

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