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更新日:令和2(2020)年3月5日

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17.香取の海と水郷・十六島

移り変わる水辺の暮らし

早場米の産地として知られる穀倉地帯

 香取市の北部、利根川左岸に位置する通称「十六島」は、利根川本流と横利根川・常陸利根川・外浪逆浦に囲まれたおよそ2,800haの広大な水田地帯で、千葉県でも有数の早場米の産地です。また、初夏には花菖蒲の咲く水生植物園や十二橋めぐりに多くの人が集まる水郷観光の地でもあり、ヘラブナ釣りのメッカとしても知られています。

香取の海

 江戸内海(東京湾)に注いでいた利根川を、銚子口に流す大土木事業が行われたのは、江戸時代の初頭のことです。それまでの下総・常陸地域には、現在の霞ヶ浦・北浦・印旛沼手賀沼をひと続きにした広大な内海が広がっていました。この内海は「香取の海」と呼ばれ、その周囲に分布する貝塚や古墳は、古くから内海を中心とした文化圏が存在したことを教えてくれます。また、香取神宮が支配する「海夫(かいふ)」(漁民)の居住する「津」(港)を、南北朝時代の応安7年(1374)に書き上げた「海夫注文」には、77の港が書き上げられています。海夫は魚介類を香取神宮に献上して内海での漁撈や船の航行の権利を保障され、次第に水運や商業活動などにも従事しました。江戸時代になると「霞ヶ浦四十八津」と呼ばれる津(港町)は、霞ヶ浦の漁業について掟を定めており、水辺に生きる人々のネットワークが形成されていたのです。

利根川の東遷と十六島の開拓

 江戸に徳川幕府が開かれ、利根川の瀬替え(せがえ)が行われると、江戸を中心とした水運交通路が整備されるとともに、香取内海には土砂が流入し、砂州が形成され、新田開拓の手が入りました。いち早く16の新田村が成立したのが、ここ「十六島」でしたが、エンマ(水路)が縦横に張り巡らされ、大小のエコ(沼)が点在する水郷独特の景観のなかで、サッパ舟(農舟(のうしゅう))を生活の足とし、水から恩恵を受け、また水害との戦いを繰り返す生活が、長く続きました。一方、江戸時代中期以降、香取・鹿島・息栖(いきす)の東国三社詣と水郷遊覧が流行し、多くの文人や観光客がこの地を訪れました。昭和2年(1927)の「日本八景二十五勝」の選定でも、景勝地の第1位に取り上げられています。

 しかし昭和39年(1964)から53年(1978)にかけて、常陸利根川を浚渫し、その土砂を十六島に客土する圃場整備事業が進めらました。この事業によってエンマやエコは埋め立てられ、低湿田は嵩上(かさあ)げされて、パイプラインによる用水設備が整備された一大穀倉地帯として生まれ変わることになったのです。

昭和30年ごろの水郷

圃場整備以前、昭和30年頃の水郷

整然と耕地整理された水田

整然と耕地整理された田

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