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更新日:令和2(2020)年3月5日

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08.印旛沼の開発と新川・ニュータウン

干拓と開発、その土木技術

印旛沼の開発

 利根川水系の洪水は、古くは奈良時代の天平宝字2年(758)に、鬼怒川筋鎌庭(きぬがわすじかまにわ:現在の茨城県下妻市)付近の水害が記録されています。その後記録はありませんでしたが、寛永年間以降頻発するようになります。そのため幕府は、治水と船の運航を目指した印旛沼の干拓をたびたび計画しましたが、なかなか成功しませんでした。

 最初の工事は、享保9年(1724)に、染谷源右衛門(そめやげんえもん)が江戸幕府の許しを得、幕府から6千両を借りて、印旛沼と東京湾をつなぐ疎水路17,062mの工事を始めましたが、資金不足で中止となりました。事業費は約30万両といわれています。その後も、老中(ろうじゅう)・田沼意次(たぬまおきつぐ)、老中・水野忠邦(みずのただくに)が幕府の事業として始めましたが、いずれも失脚して工事は中止となりました。その後、印旛沼開発は水害防止・舟運整備とともに、新田開発から利水が重要な目的となり、最終的に干拓及び疎水路が完成したのは、着工から245年が経過した昭和44年(1969)のことです。

ニュータウンの開発

 印旛沼の干拓が終了したころ、日本は高度経済成長の時代を迎えます。都市への人口集中による過密問題が深刻となり、首都圏では次々と住宅団地が造成されました。そこで注目されたのが印旛沼周辺のなだらかな台地です。印旛沼の干拓により、沼の周辺は良好な水田が整備されましたが、隣接する台地の上は、穏やかな農村が広がっていました。

 昭和30年(1955)、千葉県住宅協会により、全国初の住宅団地である八千代台団地が建設され、千葉ニュータウン、成田ニュータウン、花見川団地、米本団地、村上団地、ゆりのき台と印旛沼周辺には多くの住宅団地が造成されました。

 また、印旛沼干拓の主目的となった利水は、京葉工業地帯の工業用水として千葉中央工業用水、川鉄工業用水、県上水道(飲料水)、五井・姉崎工業用水等に取水されています。

印旛沼水路

印旛沼の南北をつなぐ水路

千葉ニュータウンの景観

千葉ニュータウンの景観

 

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