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更新日:令和7(2025)年3月14日
ページ番号:733280
発表日:令和7年2月26日
更新日:令和7年3月14日
教育振興部文化財課
令和7年1月17日に開催された千葉県文化財保護審議会において千葉県登録文化財に登録すべきとの答申があった下記の文化財8件について、千葉県登録文化財に登録することを決定しました。この結果、県登録文化財は有形文化財15件、有形民俗文化財1件、無形民俗文化財1件、記念物1件の計18件となります。
有形文化財(建造物)
君津市滝原114番地1
(※所在地一部修正しました。 更新日:令和7年3月14日)
宗教法人亀山神社
君津市の南東部、小櫃川に三方を囲まれた土地に位置し、本殿・幣殿・拝殿および本殿内の須弥壇・宮殿からなる。地元では「滝の不動」とも呼ばれ信仰を集めてきたが、明治期の廃仏毀釈以後、亀山神社に名称を改め、享保10年(1725)に建築されたと伝わる不動堂が社殿となった。その後、昭和15(1940)年に幣殿と本殿を建築し、本殿に須弥壇と宮殿が移動され、旧社殿は拝殿となり複合社殿として完成した。拝殿は入母屋造、銅板葺で、当初の平面構成は、内外陣境に結界を設け、来迎柱の前に須弥壇を置く仏堂の形式であった。本殿は神明造、銅板葺、幣殿は両下造、銅板葺。本社殿は、神仏混淆の名残を目に見えるかたちで伝える建築でである。
亀山神社拝殿
亀山神社幣殿・本殿
有形文化財(建造物)
君津市滝原114番地1
(※所在地一部修正しました。 更新日:令和7年3月14日)
宗教法人亀山神社
君津市の南東部に位置する亀山神社の山門である。木造の三間一戸八脚門で、入母屋造、銅板葺。文政12(1829)年に建てられたことが、近隣の泉竜寺所蔵の棟札によって裏付けられる。参道上、石鳥居の先に立つ山門は、西面する社殿と軸線を揃える。江戸時代には仁王門として信仰されたが、明治期の廃仏毀釈以後、仁王門は亀山神社の山門となり、仁王像は泉竜寺へと移された。亀山神社の社殿とともに、地域の信仰の移り変わりの中で守られ、神仏混淆の名残を目に見えるかたちで伝える建築である。
亀山神社山門
亀山神社山門 軒見上げ
有形文化財(彫刻)
木更津市中央1-1460-1
宗教法人光明寺
光明寺の薬医門の蟇股として取り付けられた力士の彫刻である。門上部中央に力士、その左右に木鼻の獅子・牡丹が配置される。力士像の背面に刻銘(「彫工 房刕長サ住 下打墨村 武志伊八」)が確認され、27歳以前の初代伊八の作であることが判明している。力士の力強い躍動感が表現され、彫刻技術の成長著しい20代中頃の伊八の作風を示すものとして貴重である。
また、本作は伊八が拠点としていた安房地域から離れた、木更津地域での資料である。この制作を含む一連の活動により、その後の作品や評価が江戸以西を含めた広域に展開することとなったとも考えられ、その点においても一定の価値をもつ。
光明寺 蟇股「力士像」
有形文化財(彫刻)
木更津市中央1-1460-1
宗教法人光明寺
光明寺薬医門の左右の主柱に木鼻として取り付けられた獅子と牡丹の一対の彫刻である。刻銘等は確認されていないが、同門の中央にある力士像と作風・様式、木材の風化度合いの共通性から、初代伊八の作品群であることが想定できる。
これらのモチーフは、伊八が後年まで数多く制作している。本資料の獅子は、鴨川市金乗院山門の獅子と作風が近似し、20代中頃の作品として位置づけられる。伊八の作風の変遷をたどる上で、また、力士像とあわせて、初代伊八の木更津地域における活動資料として価値をもつ。
光明寺 木鼻「獅子と牡丹」(左:吽形、右:阿形)
有形文化財(考古資料)
大網白里市金谷郷1356-2(資料収蔵庫)
大網白里市
大網白里市上引切遺跡から出土した旧石器時代の線刻礫である。凝灰岩の偏平礫を加工したもので、鋸歯状線と波状線の刻線が施されている。
縄文時代草創期の愛媛県上黒岩遺跡出土の線刻礫は女性的な表現が見られることから石偶と考えられ、本資料も祭祀・儀礼などの側面をもったものと想定される。
旧石器時代の線刻礫は全国的にも出土事例が非常に少なく、鹿児島県耳取遺跡などの数か所の事例がわずかに知られる程度で、出土状況から後期旧石器時代後半(22,000から19,000年前)に属することが明らかな本資料は、貴重な資料と位置付けられる。
上引切遺跡出土線刻礫(大網白里市教育委員会提供)
有形民俗文化財
いすみ市弥正93-1(いすみ市郷土資料館)
いすみ市
万祝とは大漁を祝うために、船主や網元から船頭をはじめとした乗組員たち、関係者に配られた長着風の着物である。海に囲まれた房総半島では江戸時代後期には万祝の衣装が配られる習俗が定着したとされ、本県における漁撈文化の特徴をしめすものの1つである。
本資料は、いすみ市大原にある網元の八幡丸から取引先の廻船問屋に配られたものである。万祝は一般的に木綿製であるが、本資料は絹製で綿入の袷の長着である。絹製のものは大正時代以降に作られるようになったといわれる。色調は濃紺で、黒みが強い。昭和初期のものと考えられ、保存状態が非常に良く、模様の配色やデザインにも優れている資料である。
大原の松竹梅鶴亀文万祝
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