ここから本文です。
ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > 文化遺産 > 「ちば遺産100選」と「ちば文化的景観」 > 「ちば遺産」100選(2)利根川・江戸川と水運のゾーン
更新日:令和3(2021)年9月3日
ページ番号:315563
幕末から明治・大正にかけて、関東・東北地方を中心に流行した手踊りである。手踊りとは、持ち物を持たない踊りで、厳しい農作業に明け暮れた生活の中での数少ない娯楽であった。現在では扇子などの小道具を使う演目がある。一遍上人によって伝えられたという伝承をもつように、念仏踊りが起源のひとつだといわれる。松戸では「万作踊り」と呼ばれているが、歌詞の中に「浜が大漁で岡万作だよ」とあることから、この名がついたようである。
毎年7月15日直後の土曜日(本来は7月15日からの3日間の中日)、野田の上・仲・下町の夏祭り(祇園祭)に、疫病退散・五穀豊穣・家内安全・雨乞いなどを祈願して奉納される舞で、白装束で雨蛙の面を被ったジュウジロウさんが、つく囃子にあわせて、およそ14.5メートルのつく柱を登る。途中で反り返って扇子を広げるなど曲芸を行い、柱の頂上で逆立ちをしたり、直立で破魔矢(はまや)を四方に放つ。また、横木で背を支え両手両足を離して扇子を広げる曲芸を行い、クライマックスの下り綱の演技に移行する。奈良時代に中国から伝来した散楽(さんがく)の系統を引くと言われている。
元禄6年(1693)に下間久里(しもまくり)村(現・埼玉県越谷市下間久里)から伝授されたと伝えられる獅子舞。獅子の腹につけた太鼓(羯鼓(かっこ))の音が「ばっぱかばっぱか」と聞こえるところから「ばっぱか獅子舞」と呼ばれている。獅子舞とともに居合術と棒術が継承されている。
幸田貝塚は今から約6000年前の縄文時代前期前半に営まれた大きな集落の跡である。松戸市の史跡で、一部が公園になっている。貝塚は南北約250m、東西約180mの馬蹄形であり、現在までに住居跡150軒以上が発見されている。出土品は、複雑な縄文で装飾された前期前半の「花積下層(はなづみかそう)式」や「関山(せきやま)式」と呼ばれる縄文土器を中心とし、多様な石器や装飾品などがあり、当時の暮らしぶりを知る上で貴重な資料である。
水戸徳川家第11代当主昭武(あきたけ)が明治17年(1884)に建てた屋敷である。地名から戸定邸(とじょうてい)と名付けられた。芝生を基調とする洋風を取り入れた庭(県名勝)と、伝統的な和風工法で作られた家屋(国重文)を豊かな樹木が取り囲んでいる。関東平野、江戸川、富士山を望む高台にあって、明治時代の華族の生活ぶりを今に伝える名勝である。
千葉県の醤油生産は全国生産量の33.6%(1995年)を占め、全国第1位、特に野田は銚子と並んで醤油の産地として知られている。その歴史は江戸時代初期、富農や名主層、近江商人などによって始められた。髙梨家はそのうちの1軒で、寛文元年(1661)に醤油の醸造をはじめたと伝えられる。江戸時代を通じて上花輪(かみはなわ)村をはじめとする近在16ヶ村の名主を務めた家柄である。邸宅は江戸時代に建築された部分と昭和になって改修された部分があり、近世の地割と近代的要素とが融合する独特の構成となっている。醤油醸造に携わった人々の屋敷構えを現在に伝える重要な文化財である。
手賀沼を北に臨む台地上にある2基の古墳である。ともに古墳時代前期(4世紀ごろ)の古墳で、とくに1号墳の墳丘上で出土した土師器(はじき)(素焼きの土器)の高杯(たかつき)や壺などが、古墳のお祭りの痕跡であるとして話題となった。1号墳は長さ21.5mの張出しが付いた方墳、2号墳は30mの前方後方墳(ぜんぽうごほうふん)である。
利根運河は、利根川(柏市船戸)と江戸川(流山市深井新田)を結ぶ全長8.5kmの人工運河である。オランダ人技師ムルデルの設計により明治23年(1890)に完成した。「通運丸」「銚子丸」などの蒸気船も就航し、昭和16(1941)までの約50年間に約100万艘、最盛期には年間4万艘近くの通行があり、水上交通・物流に大きな役割を果たした。近代土木遺産として土木学会の選奨土木。
我孫子市の千葉県立湖北高校の建設に伴う発掘調査で発見された、奈良時代から平安時代始め頃の郡役所の正倉跡である。正倉とは租税として徴収した稲などを納めた倉庫群のことで、碁盤目に柱をたてて床を高くした総柱建物(そうばしらたてもの)の倉庫跡が、東西南北の方位にあわせて整然と並んでいた。当時の貨幣(和同開珎銀銭(わどうかいちんぎんせん))や瓦、祭の用具の他、大量の炭化した米が見つかっており、当時の役所の実態を知ることのできる貴重な遺跡である。
江戸幕府が軍馬生産のため、下総国に小金五牧、佐倉七牧を置いたが、そのうちの一つが小金中野牧であった。野馬土手で囲まれた牧には野馬が放し飼いにされており、野馬を追い込み、良馬を選別した施設が捕込である。捕込は、元文年間(1736~41)に築かれたと伝えられ、江戸幕府の軍馬生産を知る上で重要な遺跡である。牧は、明治時代には廃止されたが、その跡地では開墾が行われ、畑や果樹園へと変化していった。
浅間神社が所在する台地は、参道を除いて、傾斜角度20度以上の急斜面に囲まれ、周囲の低地からは一段と高い地形となっている。方位によって植物の種類が異なり、南東側ではタブノキ、ヤブニッケイ、北東側・北西側はムクノキ、ヤブニッケイの順で多く生えている。市街地に隣接していながら、貴重な植物のあり方が保存されている。
柏市内の南西には大津川、北西には大堀川が流れ、ともに手賀沼へと流れ込む支流である。これらの流域の市街地には貴重な自然が残る。大津川流域では、増尾、中原、酒井根周辺の市街地に、多数の緑地が現在も残され、里山の自然を体感できる市民の憩いの場として親しまれている。
柏市の北部、常磐自動車道の柏インターチェンジに近い「こんぶくろ池」(写真)は、地金堀を経て大堀川に流れ込む手賀沼の源流で,周囲には広大な森が残されている。この池は、その形が「小袋」に似ているため名が付いたとも言われ、池には主のウナギが住んでいるなどの伝承が伝えられている。周囲には湧水や湿原を中心とした自然が残され、貴重なズミ、ヌマガヤなどの植物、メダカ、ノウサギ、湿地性の昆虫などが棲息している。これらの緑地や水辺は、かつての下総台地や谷津の里山景観が、市街地の中に残されている点で貴重である。
真間川最上流域、鎌ケ谷市道野辺から中沢地区の台地上には梨畑が広がり、その間には、周囲の市街地とは対照的な森林が多く残る。その代表例が、八幡・春日神社と根頭(ねず)神社の森である。八幡・春日神社の森(写真)は、約300年を経過していると思われ、主にシロダモ、ケヤキ、ムクノキ、スギ、シラカシ、エノキなどで占められ、幹周3m以上のスギ2本とムクノキ6本が存在する。
根頭神社の森は、スギ、ヒノキ、スダジイ、アカガシなどで占められる本殿林と、それを囲むスギ、ヒノキの人工林で構成され、スギの年齢は約100年と推定される。本殿林には幹周3.48mのスダジイの巨木がある。ともに、下総地域の社叢林の典型的な例である。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください