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更新日:令和7(2025)年12月3日

ページ番号:803121

「違いを認め合うということ」(令和7年度心の輪を広げる体験作文入賞作品)

「違いを認め合うということ」

小学生区分

佳作(内閣府)

千葉県知事最優秀賞

筑波大学附属聴覚特別支援学校小学部6年
板谷 淳平(いたや じゅんぺい)

 

「え、何?もう一回言って。」

「やっぱりいいよ。」

これが、ぼくと姉の日常だ。ぼくは、先天性感音性難聴だ。生まれてから二日目に行った新生児聴覚スクリーニング検査で反応がなく、大きな病院にいくことになった。会話はできるけれど、補聴器をつけて一生けん命聞き取っている。補聴器では、すべての言葉をひろえるわけではなく、聞きもらしが多い。特に、複数人での会話や一対一での会話でも、ざわざわした場所だと聞き取れなくて心がモヤモヤする。何度も聞き返すと相手に悪いと思ってしまうし、外でも家でも分かったふりをすることもある。色に例えると、聴者の人は白や黒のようにはっきりと音が聞こえるけれど、難聴のぼくは灰色のようにぼやけて聞こえる。姉のボソボソとした小さな声はぼくにとって灰色だ。ぼくの難聴を家族がすべて理解しているのかは分からない。

 でも、難聴のぼくにも良い事がある。例えば、寝る時は雑音が聞こえないので、ぐっすりねむれて、耳栓がいらない。また、同じ補聴器をつけている人とは仲良くなりやすいことだ。

 ぼくの周りで補聴器をつけている人は圧とう的に人数が少ない。だから、見つけるととてもうれしくなる。特に、大人のろう者は先ぱいでもあり、安心感がある。昔のろう教育は、手話を禁止されていたり、聞こえないという理由で差別を受けたり、今よりもずっと厳しい社会だったと知った。

 そこで、ぼくは「共生社会」という言葉を知った。「共生社会」とは、障害の有無や、性別、国せきなどは関係なく、全ての人が互いにそん重し合いながら共に生き、支えあっていく社会のことらしい。最初、家族は障害の有無に関係なく暮らしているから共生社会が実現していると思っていた。でも、難聴のことを理解していなかったり、単に一緒に暮らしたりするだけでは、共存にすぎないということが分かった。

 では、一般社会はどうか。ぼくが普段使っている電車の車内には、電光けい示板が無い。事故などで、急に電車が止まって車内放送があっても、はっきり聞き取れず、周りの状況が分からないので、行動が遅れてしまうかもしれない。つまり、声のみの情報には限界があるということだ。ふだんの会話やアナウンスも手話や字まくがあると生活しやすいと考える。

 今の日本の設備は、健常者が使いやすい仕組みになっていると思う。昔よりは共生社会に近づいているけれど、まだまだ実現していないと思う。なぜ理解が深まらないのか、ぼくは考えてみた。学校の時間割を見ていたら、障害や病気のことを学ぶ機会が少ないと思った。道徳で相手を思いやる気持ちなど考える授業はあったけれども、障害などを学ぶ授業が少なかった。

 ぼくは、人は体の特ちょう、性別、国、得意なこと、苦手なことなどの色々なちがいを持っているということを学ぶ機会を増やすべきだと思った。それを理解して、認め合うことで暮らしやすい社会になると思うから、一人一人の意識が変わればいいなと思った。

 

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所属課室:健康福祉部障害者福祉推進課共生社会推進室

電話番号:043-223-2338

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