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更新日:令和2(2020)年6月3日
ページ番号:314818
(とうみょうだい)
県指定有形民俗文化財
昭和37年5月1日
船橋市宮本5-2-1(意富比神社)
船橋大神宮として親しまれている意富比神社は、昔から海上からの目印とされてきた。幕末までは、夜間に船橋沿岸を航行する船は、意富比神社境内にあった常夜灯が夜の航海の頼りでした。神社の名も「おおひ(大火)」に由来し、それが神格化して海運業者や漁民の信仰の対象となったものと考えられている。
しかし、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に、この常夜灯は社殿とともに焼失してしまった。そのため、再建を望む声が高まり、明治13年(1880)、地元の有志の寄付金によって境内の標高12mの小高い丘の上に建てられたのがこの灯明台である。かつては「浅間山灯明台」と呼ばれた。
明治13年の完成から、明治28年10月31日付官報に廃止が告示されるまで政府公認の私設灯台として、活躍した。高さは約12mで木造瓦葺の3階建。1、2階の管理人の宿舎は和風建築、3階の灯室は洋式灯台のデザインをとり入れた六角形の部屋で、和洋折衷のつくりになっている。日本で初めて石油ランプ(3基)、錫製の反射鏡(3基)を設置した灯台で、灯りの到達距離は約6マイル(9.7km)であった。レンズこそ備えてはいなかったものの、当時としては最新式の設備である。
日本の洋式灯台は、明治2年の観音崎灯台をはじめ、多くは官営で新設されたが、この灯台は民間の信仰による灯明が、洋式灯台に発展した数少ない例です。現存の灯明台としては最大規模で、昭和40年に、一度解体修理されている。
灯明台という明治時代の呼称がそのまま残っている点も注目されている。
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