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更新日:令和2(2020)年5月2日
ページ番号:315238
(しもうさこがねなかのまきあと)
国指定史跡
平成19年2月6日
鎌ケ谷市東中沢ほか
房総には古くから牧場が多く、平安時代から江戸時代にかけて軍馬の有力な供給地であった。平将門や歴代の千葉氏、源頼朝などが強大な軍事力をもち得たのはこうした背景が一因であったといわれている。
徳川家康は慶長9年(1604)に、戦力強化のために従来の牧場を整理して、下総国に小金三牧、印西牧、佐倉七牧を置いた。さらに、八代将軍吉宗が享保7年(1722)に、これらの牧をさらに整備し、小金三牧は従来の上野牧、中野牧、下野牧に、高田台牧と印西牧を加えて五牧とした。このうち中野牧と下野牧は特に重視され、幕府の直轄の牧として野馬奉行の下に管理され、村の名主が牧士(もくし)となって馬の世話をした。牧の範囲は、現在の野田市から千葉市の北部に及び、幕末には約15,000haの規模があったといわれている。
牧にいる馬は、牧場で飼育された馬を放牧したものではなく、野生の馬そのものであった。これらの馬は年に1回、1か所に集められて、軍用馬として使えそうな馬を捕獲するが、馬を集めて捕獲する場所が捕込(とっこめ)跡である。捕込跡は各牧に1か所ずつあり、中野牧の捕込跡と牧を取り巻く野馬土手、野馬堀は現在もよく保存されている。
特に捕込跡は元文年間(1736~1741)の構築と伝えられ、高さ約3~5mの土手で囲まれた馬を追い込む区画が残っており、江戸幕府の馬の生産を支えた重要な施設を知る上で貴重なものである。
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