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更新日:令和5(2023)年4月14日
ページ番号:314931
(しもふさこくぶんにじあと)
国指定史跡
昭和42年12月27日
市川市国分4-17-1ほか
国分尼寺は、国分寺と同様、天平13年(741)に聖武天皇が発した国分寺建立の詔勅により、全国に建立された。正式名称は「法華滅罪之寺」という。下総国分尼寺跡は、下総国分寺の北西側約500mの同一台地上に所在しており、東側にある国分寺は「東寺」、西側にある国分尼寺は「西寺」ともよばれていたようである。
昭和42年(1967)に行われた市川市教育委員会の発掘調査により、寺域の範囲、主要建物の位置や配置、その他の施設などが概ね判明した。寺域の範囲は、溝によって区画され、北辺、東辺、南辺の3辺が確認されている。主要建物としては金堂基壇(東西25.5m、南北22.4m)、講堂基壇(東西26m、南北18m)、尼房(掘立柱建物跡)で、これらの建物は溝と塀で区画されていたものと思われ、また創建期には区画の南面に掘立柱の四脚門による中門とさらにその南に掘立柱の四脚門による南大門を配置していたこともわかった。後に南大門は八脚門に改築され、中門は見られなくなる。金堂基壇と講堂基壇は南北に一列に並んだ、下総国分寺とは異なった典型的な東大寺式伽藍配置である。
出土遺物には、土器、金属器、陶磁器、瓦など多種多様なものが見られる。それらのうち、国分尼寺を表す遺物として「西寺」、「尼寺」と書かれた墨書土器がある。また、二彩陶器小壺といった希少な遺物も見られる。軒丸瓦には、国分寺とは異なり「蓮華文」と「宝相華文」の双方が使用されている。
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