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更新日:令和5(2023)年4月14日
ページ番号:314928
(ほりのうちかいづか)
国指定史跡
昭和39年7月6日
市川市北国分町2899ほか(市川市ほか)
堀之内貝塚は、国分川下流域、南北を谷に挟まれて東西に細長く尾根状に伸びた幅約150m前後、標高22~23mの台地上から斜面にかけて所在する。貝層は、東西225m、南北120mのU字形に分布する馬蹄形貝塚で、台地中央部には貝層は分布していない。ハマグリ・イボキサゴ・オキシジミ等を主体とした主鹹貝塚(しゅかんかいづか、海棲貝を中心に構成される貝塚のこと)である。
明治時代初期から、東京に一番近い大貝塚として広く知られ、明治37年(1904)、東京人類学会創立20周年を記念した第1回「遠足会」に堀之内貝塚が選ばれてからは、研究者たちが盛んに発掘を繰り返した。当時の関心は、日本における「石器時代人」の人種あるいは民族をめぐる問題であったため人骨は大変珍重された。昭和時代入ると、本貝塚から出土した特徴的な土器は「堀之内式土器」と命名され、縄文時代後期前半(約3,800年前)の土器として編年上の基準となっている。
土器以外には、土版や土偶、貝輪なども出土し、貝層の下からは竪穴住居跡が発見され、ほかに埋葬人骨も見つかっている。
昭和29年(1954)の早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学による発掘調査では、日本ではじめての馬蹄形貝塚の地形測量図が作成され、貝塚の規模、形態や過去の主な調査地点等が記載された。その後、貝塚の形成過程、貝塚と集落の関係、貝塚中央部の「広場」の機能など、遺跡の構造に迫ろうとする数多くの研究視点を提供してきた遺跡でもある。
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