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更新日:令和4(2022)年10月12日

ページ番号:21013

寺・神社にある国・県指定文化財│夷隅地域振興事務所

夷隅地域の寺・神社にある国指定文化財

寺・神社名

文化財名

分類

所在地

概要

観音寺

木造馬頭観世音菩薩立像

県指定有形文化財

大多喜町紺屋84

馬頭観世音菩薩は、頭上に馬頭をいただき、魔障や悪心などを馬口のように食いついくして衆生を救済するところからその名がある。

この像は、高さ89センチメートル、桧の一本造りである。三面六臂に造られ、技法も入念で一流の仏師の作と思われる。

尊容、ひだ、全体の調子などからして鎌倉時代の作と推定される。六臂のうち欠けるところもあり、宝冠、珱珞および台座、光背は後補である。

なお、ビシュヌ神の化身の一つともいわれ、馬頭金剛明王は異名である。

良玄寺 紙本著色本多忠勝画像 県指定有形文化財 大多喜町新丁180 本多忠勝は、天文十七年(1548)三月三河国に生まれ、生粋の三河武士で、十三歳大高の役の初陣から大小五七戦、常に軍功を立て勇名一世にとどろき、東照公(家康)の四天王の一人である。

天正十八年(1590)上総国長南城を守り、両総地方を鎮撫した戦功によって秀吉から佐藤忠信の着用した冑を賜られた。家康の入城にともない忠勝は上総国大多喜城拾万石に封ぜられた。

在城十一年、慶長六年(1601)伊勢国桑名城拾万石に移封され、同十五年十月十八日桑名城で没した。

この画像の由来は、良玄寺の古文書によれば絵師に命じて自像を描かせること八幅におよんだが、会心の作に至らず、九幅目に及んで、初めて上出来なりとして大いに満悦し、表装をして良信寺住職了学上人に贈られたものである。

画像は、和紙に極彩色で描写され、筆致精妙で、名将の肖像画として歴史的にも貴重なものである。

円照寺 木造釈迦如来坐像及び両脇待坐像 県指定有形文化財 大多喜町田丁232 本尊の仏体の高さは93センチメートル、桧の寄木造りの坐像である。

光背は、円光と火焔の一部が存し、上部の化仏のあった個所だけが残っている。

なお、普賢菩薩、文殊菩薩の両脇侍も完全な形である。それらの尊容は、優美で技巧も優れ、室町時代に名のある仏師によって造られたものと思われる。

六所神社 六所神社本殿 県指定有形文化財 大多喜町泉水 六所神社の草創沿革については明らかでないが、元泉水寺の鎮守社と考えられている。

神社の建物は、当初は三間社流れ造りである。本殿の桁から上全部は後世の修理により変えられているが、懸魚・六葉・鼻隠し懸魚などは当初のものである。

正面三間の間の両開棧唐戸は良く、正面欄間の蟇股は、内部に宝珠を中心とした唐草模様の透かし彫りがある。

また、側面脇障子、高欄なども古式にならい、化粧木鼻はさばの尾である。裏側間斗束は簑束で、鎌倉時代流行の形をしている。

大山祇神社 木造虚空蔵菩薩坐像 県指定有形文化財 大多喜町泉水 この像は高さ152センチメートルの寄木造りである。虚空蔵菩薩とは、一切の知恵と功徳を包蔵すること虚空の如くであるというところから名づけられたものである。

彫法は極めて古く、雄大崇高の相をあらわし、全体の印象から平安朝後期の作と推定される。

宝冠、珱珞、右手などは後に補ったものであり、昭和46年には全面的な解体修理が行われた。

大山祇神社境内にこの堂があるのは、神仏習合の歴史を物語るものである。

宝聚院 紙本著色観人十界図(熊野観心十界図) 県指定有形文化財 大多喜町横山 この仏画は、縦137センチメートル、横123センチメートルの大きさで、軸装されている。

十界というのは、迷いの世界六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)、悟りの世界四聖(声門・緑覚・菩薩・仏)のことをいう。

中心やや上にこころの字を置き、その前に供米三碗を描いて、十二衆僧を中心に、左に閻魔大王、右に菩薩、右端は御殿造りの居宅の中に父母が並んで立っている。

中心部より下部は、地獄の様相をあらわしている。この仏画は、最勝院(台地区)の什物であったが、現在は宝聚院蔵となっている。

行元寺 旧書院(現庫裡) 県指定有形文化財 いすみ市萩原2136 間口七間(1271センチメートル)、奥行四間(72センチメートル)の茅葺主屋の周囲に縁を廻し、内部を六室に区画する。前寄り一間半(272センチメートル)幅で横手に三室並ぶ座敷は、部屋境にそれぞれ杉戸を建込んでおり、その杉戸の両面に鷹や獅子、波に朝日、在原業平と富士などの絵が描かれている。

これら三室は使者の間、控の間としての扱いであったと思われる。

裏寄り三室は、床の間を備えた部屋が上の間、ついで中の間、下の間の性格を持ち、上の間と中の間の長押上の欄間には、波図彫刻が組み込んである。銘によって初代伊八の文化六年(1809)の作品とわかり、この建物の見せ場ともいうべきものである。

上の間、中の間は棹縁天井で10尺(303センチメートル)と高く、縁まわりの長押上は明かり障子で、各部屋境の襖や杉戸を取りはずすと四八畳の開放的な一室となる。記録により寛政一二年、(1800)書院として建てられたことがわかり、房総で数少ない遺構といわれる。

行元寺 銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像 県指定有形文化財 いすみ市萩原2136 像高は中尊の如来像が52センチメートル、両脇侍は33.5センチメートルである。

中尊は両手首別鋳で、蟻柄をもって袖口ではめこみ、両脇侍は両腕別鋳で、これも同方法で肩のつけねではめこんでいる。中尊は県内善光寺式のなかで像高が一番高く、三尊とも顔、体とも重厚で、鋳あがりが良く、善光寺三尊中、もっともすぐれた作品である。

この像で特に注目されるのは、像全体に金箔が施されており、鎌倉時代に通例みられる如来像と異なって、中尊の肉髻がきわめて高いことである。古風に造られていることで著名な、鎌倉円覚寺の文永八年(1271)在銘の中尊像に形が似ているほか、県内では香取市修徳院の正応三年(1290)在銘像によく似ている。

制作年代は円覚寺像や修徳院像に近い、鎌倉時代後期と考えられる。

行元寺 木造阿弥陀如来立像 県指定有形文化財 いすみ市萩原2136 像高97センチでヒノキ材の一木造である。両腕と足先は別材で接ぎ、彫眼で表面は黒漆地漆箔仕上げされている。光背は挙身光、台座は蓮華座、来迎印の阿弥陀如来立像である。

穏和な面貌、浅く柔らかな彫による定着化した衣文、ゆるやかな曲面による肉取りなど、平安後期の典型的な定朝様如来形立像の特色を示している。

なお、後頭部の螺髪が同心円状に刻まれているが、当代の如来形像にはこうした例はみられず、本像独自の個性として注目される。全体から丸みの強いふくよかな肉づけに、作者の堅実な技量がうかがえる。

寺伝によれば、平安末期に当寺を再興した平重盛の守り本尊であったとされるが、京都辺りの中央作とみられる。平安後期の仏像の様式を知るうえで貴重な作例である。

行元寺 金銅竜文五鈷鈴 県指定有形文化財 いすみ市萩原2136 総高23.5センチメートルセンチ、鈴部高10.5センチメートル、口径10センチメートル、舌長7.5センチメートルの金銅製の五鈷鈴である。

これは密教法具の一つで、五鈷杵形の把をつけた金剛鈴で、振り鳴らすと妙なる音を発して、仏を歓喜せんとするものである。

把と鈴が別鋳で、把手の殊文帯の上でつなぎ、鈴体内にほぞをさし込み、その先端に舌をつるしている。把の部分は中央鬼目とし、殊文帯をめぐらす。弁は各部とも三重弁で、鈴体の意匠は、竜を高肉に鋳出して廻らした特異のもので鋳上りも優れている。

寺伝では慈覚大師が唐から請来したといい、竜鈴と称し請雨祈願のときに使われた。銘文がなく、年代・作者は明らかでないが、様式、手法から制作年代は、鎌倉時代か南北朝時代と推定されている。

宝泉寺 木造十一面観音立像 県指定有形文化財 いすみ市小又井 この像は、像高174.5センチメートル、肩張43センチメートル、台座17センチメートルの一本造りで、平安初期彫刻によくみられ、量槐性を強調するところや、下半身を寸づまりに変形したところなどに特色を持っている。

また、この像は後世の彩色で品質がそこなわれているが、古様な面相や裾先が、蓮肉の上で座っているところ、裳腰のしわの表現など、構造面から判断すると、夷隅郡内にある仏像としては最も古様であり、平安初期の彫刻の様式を持つものとして貴重である。

海雄寺 銅造釈迦涅槃像 県指定有形文化財 いすみ市万木133 全長5.16メートル、青銅製の「万木の寝釈迦様」と呼ばれる釈迦涅槃像である。

この涅槃像は、正徳年間(1711~15)松丸村三代三上金三郎が本願主となり、近郷近在の多数の人々の寄進によって造り上げたものである。

もと、庭前に露仏として安置され盛大な祭典が行われたという。明治一四年補修し現在地に安置されたといわれる。

涅槃像の衣紋に刻まれている多数の人の名は江戸中期における人々の信仰心の厚さを語ってくれる。一方像を鋳造した高度の技術が夷隅地方にあったことを知る貴重な存在である。

大聖寺 大聖寺不動堂附厨子 国指定重要文化財 いすみ市大原10676 海岸に近く太平洋を望み、波切り不動と呼ばれて、特に、漁業関係者の信仰が厚い。伝説によれば、宝治二年(1248)、地元の漁師小浜道猷の妻が海藻を獲るとき海中で不動明王像を発見し、安置したという。

堂は、正面三間、側面三間で、屋根は茅葺の寄棟造である。軒は二重繁垂木、正面中央は棧唐戸、両脇及び側面は舞良戸と板壁になっている。

また、組物についた拳鼻、頭貫の木鼻、簑束、板蟇股など禅宗様を主とした和様との折衷様式を示している。

建立年代を示す正確な資料はないが、様式から見て室町時代のものと推定されている。

照願寺 紙本著色親鸞聖人絵伝 国指定重要文化財 いすみ市大原10670 鎌倉時代末期に流行した祖師伝絵の一種である。縦は各巻とも41.3センチメートル、横は第一巻が11.76センチメートル、第二巻13.94センチメートル、第三巻14.78メートル、第四巻13.72メートルである。

親鸞は浄土真宗(一向宗)の開祖で、それまでの仏教がとかく支配階級と結びついてきたのに対して、彼は貧しい庶民に救いを与えることを主眼とした。

この絵伝は各巻の題箋に「本願寺親鸞聖人傳繪」とあるほか、また各巻末には「康永三年(1344)仲冬朔日外題書之釈覚如七十五」との署名があり、第四巻の奥書には親鸞を顕彰する意図のもとに製作したことが記されている。

色彩が美しく、人物、動作が生き生きと描かれている点が評価されている。

大日堂 鉄造仏頭 県指定有形文化財 いすみ市山田 首より上で、高さ1.13メートルもの大きさであるが、頭頂はない。

頭上の天冠台の下から、頸部三道の下までの菩薩像頭部である。一つの鋳型で筒状に鋳造されている。

鋳型は耳の後でたてに前後をはぎ合わせてある。型くずれがなく、内側まできれいに鋳あげてある。

わが国の鉄仏は藤原時代から現れ、その多くは鎌倉時代から室町時代にかけて作られたものである。

関東地方で知られている鉄仏の中で最も鋳上が良いが、型にはまった作風で、彫刻技術よりも工芸技術の優れた作である。

首から上が残った大鉄仏の例を他に求めると、東京都日本橋人形町大観音寺出土と伝えられる鎌倉時代の鉄造仏頭例がある。

作風を比べると大門の仏頭の方が定型化が目立ち、制作年代は降るようである。

県下における江戸時代以前の鉄造仏として唯一の例である。

長福寺 木造薬師如来坐像 県指定有形文化財 いすみ市下布施757 像高は1.01メートル、ヒノキ材の一木造で漆箔が施されている。

体部は内刳を施して背板を当て、両肩、膝部等をはぎ付けている。

白毫は欠失しているが、肉髻殊は木製である。彫眼で耳たぶは環耳である。衲衣を着け、左手は膝で上に向け、右手は五指を伸ばして正面に向けて左足を外にして坐る。

この像の姿には、平安時代後期の地方的作風がみられるが、内髻の高めなこと、眼の彫り方、力強い体部の表現などから制作年代は鎌倉時代初期と考えられている。

膝裏に建長二年(1250)胎内に寛永十五年(1638)の修理銘がある。

本県における鎌倉時代の作例として重要な資料である。

清水寺 木造十一面観音立像 県指定有形文化財 いすみ市岬町鴨根1270 清水寺は、坂東三十三か所観音巡礼の三十二番札所として知られている。

この像は、像高1.1メートル、ヒノキ材の寄木造である。現在は素地であるが、当初に彩色か箔が施された可能性もある。

宝髻高く、玉眼を入れる。化仏のうち六面を失っているほか、右足先を欠いている。

小締りでふっくらした面立、はずみのある体つきは鎌倉彫刻の写実性をよく示している。

衣のひだは、動きのあるはでな宋朝風で、当時とすれば異国情緒をたたえた作であったろう。

制作年代は鎌倉時代後期と考えられる。なお、光背と台座は失われている。

法興寺 鋳銅孔雀宝珠文磬 県指定有形文化財 いすみ市岬町岩熊820 鋳銅。肩張27.0センチメートル、裾張27.6センチメートル、総高17.3センチメートル、縁厚1.1センチメートル内外、撞座径約9.5センチメートル。

縁は菱形で内側に子縁をともない、上縁六弧、下縁三弧に型どり、左右の縦縁は下方でやや外に張る。

文様は各面異なり、一面は簡略化した八葉の蓮華文の撞座を中心に翼を張り尾を上げる孔雀を相対して鋳出する。

他の一面はこれも略化した八葉の蓮華文の撞座を中心に線書き状の宝珠を相対して鋳出し、長禄五年(1461)の銘がある。

形態・意匠の簡略化が目立つが、紀年銘により、その時代の基準作の一つとなる点で貴重である。

法華寺 木造宝冠阿弥陀如来坐像 県指定有形文化財 いすみ市岬町岩熊1054 像高1メートル(宝冠まで)ヒノキ材の寄木造り。玉眼。一見して宗朝様式で明人の作を思わせる。

どっしりとした姿は堂々たる偉容を見せているが、特に注目されることは面相が異国風であること。

また、天衣が両足から垂れさがり、その流れがさらに尊像の調和と安定感を与えている。

県内稀にみる宗朝様式の尊像であり、極めて貴重な仏像である。時代は室町時代と推定される。

飯縄寺 飯縄寺本堂 県指定有形文化財 いすみ市岬町和泉2933 平成6年に県指定文化財となる。

本堂には、「牛若丸と大天狗の図」が高さ1メートル、長さ4メートル、ケヤキ一枚板に彫られており、この図は鞍馬山で牛若丸が大天狗より巻物を伝授される図で、作者の運刀の冴えが見られる勇勁な大作である。

県内宮彫作品としては最優秀といっても過言ではない。「武士伊八郎信由」の銘文があるので初代武士伊八の作品と認められる。

東光寺 東光寺木造地蔵菩薩立像 県指定有形文化財 勝浦市大森935 建長三年(1251)鎌倉期の仏像。

像高88cm、桧材一本造りで躰部背面から長方形に内刳りを施し、薄い背板を添えてある。

彫目で瞳は墨塗り、両足を現在欠いているが保存はよく仏像の出来もよい。

東光寺 東光寺僧形坐像 県指定有形文化財 勝浦市大森935 平安時代後期の院助(仏師覚助の子、仏師長勢の弟子といわれる)以来の伝統をもつ京都仏師の一派に属する仏師の作。

ヒノキ材、寄木造り、玉眼嵌入、彩色仕上げ、像高42.1センチメートル、像容は頭部円頂、下衣の上に法衣を着け、袈裟を右肩、偏袒右肩に着けその端は左胸に環をつけて背部からの紐で吊り、左腕の肘にかけている。

禅定印を結び曲ろくのような椅子の畳座に結跏趺座し、両袖と衣の裾を正面に垂らしています。

龍蔵寺 鋳銅鰐口 県指定有形文化財 勝浦市法花128 鰐口は、法具の一つで、打ち鳴らす道具である。その名称は姿、形がワニの口に似ているところから来たと言われている。

南北朝時代の作で径23.5センチメートル、厚さ5.5センチメートル、釣環高1.5センチメートル。素丈で三重に二条の帯線を鋳出して区切られ、次のような陰刻銘がある。

上総国滝上寺之鰐口願主□□□□永和四年戌午三月日

後世の作為による刻字と破損個所のあることは惜しまれるが、本県最古の鰐口として貴重である。

本行寺 本行寺釈迦堂 県指定有形文化財 勝浦市浜勝浦10

暦応二年(1339)日続によって、真言宗から日蓮宗に改めれれたと伝えられる。

享保八年(1723)の五十座に際し、池上本門寺より、日蓮聖人の御歯骨を分与された。

日蓮宗寺院の多い千葉県にあっても、重層建築の釈迦堂は稀である。

日蓮聖人の御歯骨を奉安するため建てたところから舎利塔の意も含んで重層としたのであろう。

亀腹基壇に立ち、三間堂で重層方形造り、桟瓦葺きで棟上に擬宝珠をのせている。

構造柱は円柱、和様の斗くいは和様三手法、周辺に和様高欄を設けている。下層中央の間は両開桟唐戸であったが、現在はガラス戸に改められている。

中央奥に須弥壇があって、釈迦如来が祀られているが、その前室内中央に厨子が設けられ、御分骨が泰安されている。天井は鏡板に彩色にてタチバナの紋を描いた格天井である。

お問い合わせ

所属課室:総務部夷隅地域振興事務所企画課

電話番号:0470-82-2211

ファックス番号:0470-82-4164

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