千葉県オーラルヒストリー 2025 湾岸エリア開発の起点(前編・後編) JFEスチール株式会社 東日本製鉄所(千葉地区) 2025年9月29日撮影 JFEスチール株式会社 東日本製鉄所(千葉地区) 専務執行役員/東日本製鉄所長/東日本製鉄所 千葉地区所長 永井 肇氏(1965年生まれ) 1965年 神奈川県生まれ 東京工業大学工学部理工学研究科機械物理工学専攻 1991年 同大学院同学部修士課程修了 卒業 同年 川崎製鉄株式会社(現・JFEスチール株式会社)に入社 2013年 JFEスチール西日本製鉄所(倉敷地区) 冷延部冷延技術室長 2014年 西日本製鉄所(倉敷地区)冷延部長 2016年 東日本製鉄所(千葉地区)商品技術部長 2020年 東日本製鉄所企画部長 2021年 常務執行役員 東日本製鉄所千葉地区副所長 川崎製鉄を千葉県に作ったきっかけ 永井:まず、やはり戦後の日本は、非常に時代遅れの競争力のない製鉄所しか持っていませんでした。 高炉はたくさんあるけど優れた鉄は作れない。 そういう中で、銑鋼一貫の製鉄所として最新鋭のものを作るんだということをやったというのが一つあります。 そして、鉄としては非常に大消費地帯である関東、それから東日本というのは、 非常に復興のためにも含めて鉄を多く使わなくてはいけない時代でしたので、 その中で、鉄を身近で供給できる、しかも働く人もすごく周りにいてくれる、 そういう意味では、働く方も、それから、お客様の近くであるという意味でもですね、 意味のある製鉄所の立ち上げだったと思います。 やはり戦後、鉄鋼業が最新鋭の設備、最新の技術で鉄を作っていかなくてはいけないという中で、 旧川崎製鉄では一貫製鉄所、これをプライベートとして初めて作りたいということを考えていました。 いろいろな候補地がありましたが、その中で、特に千葉市の沖のところでですね、 千葉県と千葉市が、非常に熱烈にですね、「ぜひ川崎製鉄来てくれ」というような要望があって。 そういうご縁もあって、こちらの方に来るということになりました。 当然のことながら製鉄所を作るにあたっていろいろな下見をするのですが、例えば、一大消費地に近いという立地の良さ、 それから、製鉄所を作るにあたって、いくつかの条件があるのですが、 一つは原料を運んでくるのに非常に深い港が必要になります。大きな船で持ってきますので。 それから、水、電気といったユーティリティ。これがあるかどうか。 これはもう、一大事業になりますので、そういう条件ができるかどうかということをいろいろ調べていたと聞いています。 昔の日本の製鉄というのは、高炉をもとにした銑鉄を作る、作ったところの銑鉄を買ってきて、 それをもとに製品を作る、こういう分業型になっているところもありました。 一方、鉄というのは熱い材料ですから、熱を持っています。 ということは、その熱を使って、そのまま製品を作った方が、エネルギーとしては合理的です。 ですから、本当はそういった鉄を作る上工程、それから、最終製品を作る下工程、 これは非常に近くにある方がいい、というのがまず根幹にあって。 ただ、それぞれが時代遅れのものであると最終的に良い製品はできません。 ですから、作るのであるならば、最新鋭の世界に冠たる製鉄所を作るんだというようなところが、 千葉製鉄所を作った時のコンセプトになると思います。 行政との連携 永井:ここに製鉄所を作るまでは、先ほど言ったユーティリティとかも、まだ全然出来上がってない状態でしたので、 行政の方たちの「これからやるぞ」という計画と熱意、 そういったものが当時の創業者である西山彌太郎に響いたのではないかと想像します。 〔解説〕 西山彌太郎(1893−1966) 川崎製鉄 創業者・初代社長。 日本の鉄鋼業界を牽引した実業家であり戦後の復興期に近代的な製鉄技術の導入を進め、 1951年に千葉製鉄所を開設した。 高炉の国産化を推進し、日本の重工業発展の基盤を築いた功労者である。 また、技術者の育成にも力を注ぎ、地域経済と産業の発展に大きく寄与した。 〔解説終わり〕 創業者 西山彌太郎 永井:「新しいことをやるぞ」ということに対して、社員を説得したというふうに聞いています。 その説得に応じて、今までの生活基盤と違う、阪神地区、兵庫県の人たちが、 千葉に来てでも親父さん(西山彌太郎)と一緒に仕事をしようと決めたということで、 本人もそれを非常に喜んでいて、対内的にも、それから対外的にも 「うちの社員はみんな賛同してきてくれたんだ」ということを 誇らしげに話していたというような記述を見たことがあります。 これも私は(入社する前で)当然いなかったのですが、先輩に話を聞いたりとか、 本を読んだりする中では、絶対に失敗しないために、本当に綿密に計画と実行をやっていた、 例えば、製鉄所の図面なども200パターンでは済まないぐらい書きまくったと聞いています。 それぐらいみんなで意見を出し合いながら、レイアウトを考えて、作り変えながら、それで、短期間で製鉄所を作り上げる、 これをやったという意味では、それを引っ張った社長、西山彌太郎さんもそうですが、 それを実現するために、みんなでチームでタッグを組んでやったんだろうなと感じています。 千葉製鉄所建設に関わった人たち 永井:川崎製鉄、JFEの前身の会社は、兵庫県の方が主体である会社でした。 1951年にここを千葉製鉄所として立ち上げたのですが、当然のことながら、一貫製鉄所を作るというので、 多くの技術者、それから働く労働者が必要になります。 西山彌太郎は阪神地区にいる各工場の人たちに協力を要請して、当時、親父さんと言われていたらしいのですが、 その「親父さんがやるならば我々も行かなくてはいけない」ということで、 非常に多くの人たちが阪神地区からこちらの方に赴任してきたと聞いています。 トータルで4000名ぐらいの方たちがこちらの方で働くようになってくれたと聞いています。 当然のことながらそれだけでは全然足りないので、新入社員を含めて、全国から採用をして、 それから、地域の方たちも採用をしたというふうに聞いてます。 昔、写真を見たことがあるのですが、昔の蘇我駅、すぐ近くの駅ですが、JR(旧国鉄)の蘇我駅に、 新入社員が、もう溢れんばかりに並んで駅の階段を上っているという写真を昔見たことがあります。 大勢の人たちが異動してくる、もしくは入社してくるということもあって、町として支えてもらわなくてはいけなくなりますので、 昔はですね、例えば居酒屋さんとか、飲み屋さんも200軒ぐらい蘇我の近辺にあったと聞いています。 非常に活気のある街だったと聞いています。 とにかく、新しい、今までに無い一貫製鉄所をプライベートな企業がやるというのは、 前代未聞だったわけですから、社員も何が起こるんだろうというワクワク感もあったと思います。 製鉄所建設前の蘇我地域の様子 永井:非常にのどかな場所だったと聞いています。 南の方では海苔が取れたりとか、潮干狩りをやったりというようなことがあったというふうに聞いています。 一部埋め立てをしている場所がありましたので、西山彌太郎が来た時に、引き潮の時に、 遠浅のところまで、非常に地盤がしっかりしていて、そこに牛車ですかね、荷車が移動していたのですが、 それがしっかりと動いていたので、この土地は地盤がしっかりしてるんだ、ということを感じて、 この地は製鉄所に良いというふうに、そこから前向きになったと聞いています。 この製鉄所のある場所は元々日立製作所の子会社である日立航空機という会社が、 飛行機のエンジンを作っている工場があったそうなのですが、 ただ、大々的にいろんなエネルギーを使うとか、インフラが整っていなかった。 田舎の中にぽつんとあるという、そういうイメージだったんじゃないかと思います。 各所の協力 永井:プライベートの会社がですね、一貫製鉄所を作るというのは非常に大工事になります。 まず、その工事をするためには莫大なお金が必要でして、当然のことながら、 日本の銀行団にも支援をしてもらったのですが、拡張するにあたっては世界銀行(国際復興開発銀行)にも 説得をして、 その必要性、重要性を認識してもらって、融資をしてもらったと聞いています。 行政の方たちにも非常に協力していただきました。 我々は1951年に製鉄所を作り、第1高炉を立ち上げたのは1953年。2年後になります。 ですが、その後、当然のことながら電力とか、ユーティリティが足りなくなってきますので、 1957年に東京電力さんが火力発電所、我々の製鉄所の隣にあるのですが、これを立ち上げていただいた。 これは行政の方たちに支援していただいた事業でありました。 実は製鉄業というのはものすごく水を使います。 それは冷却をするためには、水を使わなければいけないのですが、 当初は、千葉のこの土地に井戸水が豊富にありましたので、それを使って操業をしていました。 ただ、先ほど言いましたように、一貫製鉄所になると、どんどん量も増えますし、水の使用量も増えてきます。 そうしたこともありまして、千葉県の印旛沼から、専用の水道を引くということをやっております。 その後、千葉県さんと共同で2本目の水道も作りまして、この水道は、我々の製鉄所の水としても使うのですが、 この辺の京葉工業地帯の水としても共有、供給するためのライフラインとして、今でも活躍しています。 大きなものをやるためにはどうしても資金が要るのですが、資金の調達の仕方とか、それから運営の仕方、 行政とどうやって連携したらそういうことが実現できるんだという意味でも先駆的な事例だったと考えています。 その後の発展 永井:電力が整い、そして、やっと1958年に第2高炉の火入れ、それと、熱間圧延工場、これが立ち上がりました。 そして、冷延工場も立ち上がっています。これによって、溶けた鉄を作って固めて、 そして、下工程まで全部作るという、これを我々は一貫製鉄所と呼んでいますが、 その形がやっと、1958年のタイミングで、出来上がったということになります。 戦後日本の新しい取り組み 永井:それほど巨大な会社ではなかったので、一貫製鉄所を自分たちだけの資金で作るようなことはとてもできない状態でした。 従いまして、先ほど言いました日本の銀行団、それから世界銀行といったところの融資を受けるわけですが、 今までは、そういった巨額の融資を受けて巨大なものを建設するというプロジェクトはありませんでした。 ここから、ある意味、日本の成長、経済成長の起爆剤として一つの例として「こういうやり方があるんだ」ということを 日本中の企業に実感してもらって、手本としてもらったというところが一つあります。 我々がやったことが、戦後の日本の成長を促した一助になったと思っています。 これで、それぞれの企業が小さく収まらないで、大きくなるんだというような動きになる一つの事例として、 すごく分かりやすい事例だったんじゃないかなと思います。 それが千葉県でスタートしたというのは、我々にとっても、千葉県、千葉市にとっても非常に誇れる内容だったと考えられます。 以下、2本目に収録 1991年 入社当時の状況 永井:私、1991年の入社なのですが、千葉県や千葉市も、発展というか変化をしたタイミングでした。 具体的に言うと、ちょうど1989年のタイミング、私の入社する2年前に幕張メッセが立ち上がっています。 それから、入社する1年前の1990年には京葉線が全線開通して、 かつ、マリンスタジアムが立ち上がったタイミングでした。 それから1995年には幕張のベイタウンに入居が始まりまして、そこが千葉市の新しい住居地として、 かついろんな企業さんもあそこに社を構えていましたので、新しい都心として出来上がってきたタイミングです。 1997年にはアクアラインが開通していますので、そういう意味では千葉県、千葉市にとって ちょうど大きく変わってくるタイミングで、私も千葉の地で入社したという次第です。 正直にいうと入社した頃の蘇我の周辺は、まだ田舎かなという感じでしたが、 一方で千葉市は非常に活発で飲食店街も、ショッピングをする場所なども多くありましたし、 それから、幕張メッセや、アクアラインを経由して千葉県にたくさん人が来はじめて、 それまではですね、距離は近いけども移動距離としてはちょっと遠いというのが、 千葉県、千葉市のイメージでしたが、それが一挙に変わったタイミングだったという気がします。 1991年頃というのが、会社にとっての建設ラッシュでした。 先ほど1951年に建設スタートしたと言いましたが、それから第2の建設ラッシュになったのはちょうど1991年近辺でした。 具体的に言うと、1991年には冷延工場の中の新ラインとか、ステンレスの新しい冷延工場とか、そういったものが立ち上がっていますし、 1994年にはステンレス用の製鋼工場も新たに立ち上がっています。 その翌年の1995年には、我々が3HOT(サンホット)と呼んでいる熱間圧延設備があるのですが、 これは、世界で「ここまで自動化をした設備はない」というぐらいの最新の設備として建設しました。 このように新しい設備はどんどん立ち上がるタイミングでしたので、 活気という意味では創成期に近いぐらい活気があったと思っています。 1998年 第6高炉の改修 〔解説〕 東日本製鉄所千葉地区の沿革 創業期(東工場建設) 1950 川崎製鉄株式会社設立 1951 千葉製鉄所開設 西工場建設 1953 第1高炉操業 1977 西工場で第6高炉操業 1981 第3連鋳工場操業 1994 第4製鋼工場操業 1995 第3熱間圧延工場操業 西工場リフレッシュ 1998 第6高炉2次操業 JFE 2003 JFEスチール東日本製鉄所千葉地区として新たな飛躍 2021 千葉製鉄所開設70周年 2023 第6高炉3次操業 〔解説終わり〕 永井:千葉の製鉄所には当時、溶鉱炉、高炉が2基ありました。 そのうちの一番大きな第6高炉の寿命が来たタイミングで1回目の改修をしています。 ただ、もう1基あった小さな高炉は、本当に小さな高炉ですので、 大きな第6高炉を短期間に改修しなくてはいけないという大きなミッションがありました。 高炉というのは、高さは108メートルある鉄の容器のようなものですが、 これを全部作り替えるということで、大ブロックリング工法という工法を新しく開発して、 短期間で高炉そのものを作り替えるということをやった最初の事例になります。 先程言いましたように、100メートル強ある鉄の容器を輪切りにして、下から抜いていく、 当然、抜くためには上を一回ジャッキアップしなくてはいけませんから、上に持ち上げて下から抜く。 このように、順繰りに抜いていくという工法になります。 抜いた後、新しい高炉の容器を入れる時も、やはり上から順番に差し込んで持ち上げ、差し込んで持ち上げるという形でやる。 昔の高炉の改修は、現地に鉄板を持って行ってそこで溶接作業をしなくてはいけませんでした。 これは非常に溶接時間がかかるので、高炉を一回改修するためには、 下手すると半年ぐらい工事をしなくてはなりませんでしたが、それを大幅短縮するという工法として初めて確立しています。 大ブロックリング工法というのは、口で言えば非常に簡単ですが、直径が何十メートルもあるようなリングを、 位置をしっかり合わせて、変形もせずにその場で繋ぎ合わせるということは、 日本の製造業の技術の一番すごいところの一つです。 そういう意味では、新しい工法であるのと同時に、なぜ今までできなかったかというと、 色々な技術的な課題があって、それを技術の開発と共に工事の色々な工夫をして、それを実現したというふうに聞いています。 高炉の中身は、鉄を溶かして下から出すための容器になりますので、容器の中身は1500度を超える高温になります。 とてもじゃありませんが、中がどういう状態になっているか分かりません。 それを周りに、色々なセンサーを仕掛けて、かつその中をシミュレーションしながら、 今、何が起きているのかが分かるようになるということで、そういった技術開発も併せてやりました。 以前は、職人のノウハウのようなところがありましたが、それがセンサーや測定機器をうまく使えることによって、 想定できて、見えるようになって、積極的にエンジニアリングができるようになりました。 当然のことながら(高炉の改修工事が始まると)高炉に近いプロセスの人たちは、 始まったと、工事現場を見て「うわ、すごい」という感じがすると思いますが、 例えば、製品系の人たちは距離があるのでなかなか分からないと思います。 極端に言うとですね、高炉が止まると色々なエネルギーがなくなるので、 何か大変なことになっているとか、そういう気づきの仕方はありますね。 あと、高炉の改修は、延べ人数で23万人程工事をする人が入りました。 それだけ工場の中に、今までと違う人たちが入ってくるので、 それを見ると、何か大変なことになっていると感じたと思います。 2023年の高炉改修とその成果 永井:2023年(の高炉改修)は2つの大きな意味がありました。 1つは、先ほど言いましたように、以前止めた時は小さな溶鉱炉がまだ残っていたので、 完全に製鉄所を止める必要はなかったのですが、2023年はもう溶鉱炉は1個しかない、 ですから、1個を止めて、その間に作り変えて、また立ち上げる。 その間、溶鉱炉以外の設備は操業しなければなりませんので、いろんな技術的な課題や、お客様にも色々と ご協力をいただいてやるという。 高炉が1基のところで改修をするというのはJFEになってから初めてのことでしたので、これは非常に大きな話でありました。 それからもう一つは、センサー関係が拡充されたのをもっと増強したのと共に、 そもそも高炉の中身はどうなっているのかということを、 CPS〔注〕Cyber Physical System:サイバー フィジカル システム〔注終わり〕、 要するにコンピューター上に仮想でシミュレーションを立ち上げて、 その状態で何が起きているかということが分かるように、我々はデジタルツインと言っているのですが、 現実のものとコンピューター上のもの、これを比較しながら将来を予測して、 今ベストな操業はこうするんだ、ということもやっています。 先ほど言ったように、センサー関係はここ10年ぐらいで一挙に技術開発が進みましたので、 今まで見れなかったものが見れるようになる、取れなかったデータが取れるようになる、といった非常に大きな内容になりました。 それに基づいて、先程言いましたようなシミュレーターもかなりレベルが上がってきましたので、一番最適な操業を、将来を予測してやる、それから、今何が起きているのかということを、 的確に判断できる形ができるようになったことが一番大きいと思います。 千葉県で操業する意義 永井:西山彌太郎も考えたと思いますが、鉄は非常に重量が重いので運ぶのにエネルギーを使います。 そういう意味では大消費地である関東圏、それから東日本に近い立地であるということが、我々にとっては非常にありがたいことです。 エネルギーを無駄にせずに、お客様のところに重い材料を運べる、こうしたメリットが非常に大きいです。 それから、千葉県、千葉市は色々と頑張って物流を整備していただいたので、 鉄を作るためには色々な、機械とか資材などが必要です、それを受け入れて、我々が鉄を作ってお送りする、 送るためのインフラ関係という意味での道路や、その他の色々な交通手段、これが非常に良くなっているということが 我々にとってはありがたいし、逆に言うと、ストロングポイントになっていると思います。 そして、3つ目がですね、やはり地域住民の方たちと、一緒に千葉県、千葉市を盛り上げてるという実感が我々にありまして、 県と市が成長するために我々もいて、その成長によって我々も一緒に成長させてもらっている、 これは非常にありがたいというか、一番実感できる製鉄所だと思います。 あと、働く人たちも千葉県、千葉市に住むことになりますが、 多分すごく住みやすい、家族も生活しやすい非常にいい場所だと思います。 ですから、働いている我々の会社、それから、我々をサポートしてくれている協力会社さんも大勢の人たちがいますが、 そういう人たちもやっぱり、千葉の地で製造していて、千葉の地に住めるというのがすごくありがたい、良いことだと思います。 そもそも千葉県は海産物もしかり、それから農産物もしかり、非常に素晴らしいものがあるので、 先ほど言った町として住むだけではなくて、おいしいものもあると、それから、成田空港という非常に国際的なハブもある、 幕張メッセといったイベントをやる場所もある、場所としては最高の場所なので、ここがどんどん伸びていく、 伸びることで経済が活性化される、経済が活性化されることで、千葉県で働いている企業も元気になっていく。 環境への取り組み 永井:大昔はですね、これは千葉に限らず色々な地区であったと思いますが、 色々な排出物による光化学スモッグとか、そういった問題というものはどうしても工場地帯ではあった訳です。 そこで、我々は、やはり千葉市のお膝元で操業しているので、そうした環境に対してはかなり気を遣ってやっています。 すぐ横が商業都市になっているので、見てお分かりになると思いますが、やはり我々は、すぐ横で皆さんが生活されている、 買い物をされている、そういうところで製鉄業をやらなくてはいけないので、 環境に関しては、他の製鉄所よりもはるかに厳しい規制というか 「自分たちで何とか変えていくんだ」という意志を持って取り組んでいます。 一方で、製鉄業はやはり、CO2をどうしても多く出す業種ですから、 それを2050年までにはカーボンニュートラルにするという目標を立てていまして、 そのための技術開発をこの千葉地区でメインでやっています。 ここでできた新しい技術をJFE全体にトランスファー(共有)していく役目がありますので、 ここで最先端の技術開発をすることは、1951年に製鉄所を作った時に最新鋭の設備を入れるということと 実は同じでありまして、 そういう役割を担っている製鉄所になります。 西山彌太郎は「現場が研究の場だ」と言っていたのですが、我々もそう思っていますし、現場とそして色々な新しい技術と研究と、 そして大事なのはお客さんと一緒にそれを開発していく、ということが我々の強みでありますので、 西山彌太郎初代川崎製鉄社長が思っていたことと近いようなことを今でもやっていると思っています。