千葉県オーラルヒストリー 2025 浦安の海辺に夢の国を(前編・中編・後編) 株式会社オリエンタルランド 2025年11月4日撮影 株式会社オリエンタルランド 代表取締役 取締役会議長 加賀見 俊夫氏(1936年生まれ) 1958年 京成電鉄株式会社入社 1981年 株式会社オリエンタルランド取締役 1983年 同社常務取締役 1991年 同社専務取締役 1993年 同社取締役副社長 1995年 同社代表取締役社長 1996年 株式会社舞浜リゾートホテルズ(現・株式会社ミリアルリゾートホテルズ)代表取締役社長 2005年 株式会社オリエンタルランド代表取締役会長(兼)CEO 2009年 株式会社ミリアルリゾートホテルズ代表取締役会長 2018年 株式会社ミリアルリゾートホテルズ取締役相談役 2023年 株式会社オリエンタルランド代表取締役 取締役会議長 幼少の頃 加賀見:やんちゃ坊主でした。 小学校はですね、葛飾小学校といって、今の西船橋(現在のJR西船橋)の駅が学校用地だったんですよ。 それで、すごい大きなグラウンドがあって、田んぼもあって、畑もあって、そういう学校だったんですよ。 ちょうど今の西船橋(現在のJR西船橋)駅のところなんですけどね、そこで育ちました。 周りがですね、クラスの内、サラリーマンの家庭が2、3人で、あと(そのほか)全部が農家の方。 そういう様子ですから、もう、勉強どころじゃなくてやんちゃな生活しておりまして、 季節になると農家のところに行って、スイカをいただいたり、 畑に行って、もちろん親父さんの了解とってますけど、 スイカを食べたり、柿を食べたりという生活でした。勉強どころじゃないですよね。 中学 高校時代のエピソード 生田先生との思い出 加賀見:人生のターニングポイントを作った先生ですよ。物理の先生なんですよ。 中学3年の時の担任だったんですけど、数学の先生で、高校から物理だったんですけど、 「高校に行ったら物理をとれよ」と中3の時に口説かれてね。 数学は大嫌いだったのですが、物理っていうのは理詰めで進める(学問だと)、 だから物理でお前みたいなちゃらんぽらんは、物理で理詰めで仕事をやっていかないと だめだと口説かれたのは中3の時なんですよ。いい先生でしたよ。 その先生のおかげで、物理とって、その後、ものの考え方ですね、理詰めでいくという。 同じ科学であっても、生物と違いますから、物理は。 僕の同期でも何人か先生に口説かれたりしていますけどね。 中には、生田先生にね、教わっていなかったら、塀の中に落ちていますよと。 そういうぐらい、人生に影響を与えてくれました。やっぱりいい先生だと思いまして。 そんなに歳をとっていなく、若い先生だったんです。 偶然ですね、兄貴が開成学園の3年先輩だったので、私も開成に入りまして、 京成の葛飾の駅から、結構時間かかって日暮里まで通学した記憶があります。 日暮里駅から開成学園まで土手があって、そこを駆け足で行った記憶があるんです。 そんな生活でございまして、学生時代はもっぱら勉強より 友人と遊びでスポーツなど、活発に楽しんでいました。 大学時代のエピソード 加賀見:偶然、慶應に合格したので、それで慶應時代は應援指導部におりましたので、勉強どころじゃないんですよ。 (應援指導部の)トレーニングはすごいんです。 まず、発声練習が始まりました。日吉のグラウンドに行って、声が届くように大きな声を出せとかね。 そんなことやってたんで、週末は、いろいろなスポーツの応援に行きましたので、全く週末がなかった大学時代でした。 雨で応援する試合が流れると全くやることがないので実は麻雀をやっていましたね。 勉強をしないで、小中学校、それから大学まで卒業できたなと思います。 京成電鉄入社 加賀見:葛飾の駅から日暮里まで京成電車で、中学高校と通ったものですから、元々僕は電車が好きなんですよ。 それで京成電鉄の入社試験を受けて、ずいぶんやんちゃな回答ばかりしました。 川﨑さんが試験官だったんですよ、当時の社長のね。 それで変な質問をしてくれたので、「為替手形と約束手形の違いがなんだ」と聞かれまして。 私、法学部出身なので「全然分かりません」とムッとして答えたんです。 なので、まさか京成電鉄に入社するなんて夢にも思わなかったんですよ。 その時にどういう印象を川﨑さんが持たれたのか分かりませんが、 入社したら最初はどこに配属になるのか分からないので、 僕は切符切りを船橋駅と押上駅でやっていましたよ。 見習研修終わって、配属されたのが経理なんです。 大嫌いな経理になぜ配属をするのか…。 そんなこと、経理部に配属されたので、やる以上は経理のベテランになろうと思って、 神保町に村田簿記学校という学校があったんです。 そこに月水金通いまして、6時に会社が終わってから6時から8時半頃まで、 月水金全部、約2年半ぐらい通いました。それが今の基礎になっているのかもしれません。 揚子江という、神保町のとこに中華料理店があって、そこでラーメンを食べて、授業に出たんですけどね。 その頃が懐かしいですね。 月水金が村田簿記学校で、(残った)火木土がなんだと思いますか? 麻雀です。 当時、会社は土曜日半ドンだったんですよ。だから火木は、会社終わってからで、土曜日はお昼から麻雀をやっていました。 ですから、趣味はなんですかと聞かれると「麻雀です」と答えるんです…。 何もできませんでしたね。月水金が簿記学校で、火木土が麻雀でしたから。 でも、そういうことが生きていますよ。そうしたことでも、結構、人生を謳歌した方ですよね。 以下、2本目に収録 1960年代当時の舞浜 加賀見:ヒビ(海苔栽培に使う道具)と言うんですか、そこで海苔を取っていました。 浅瀬のところで、スダレのようにして、海苔を乾かしていました。そういう時代でした。 埋立てに至った経緯 〔解説〕 千葉県は1960年代、かつての漁業と農業の県から東京湾沿岸の京葉臨海工業地帯を中心とした 近代工業県へと変容を遂げつつあった。 それだけに大消費都市東京都と接している浦安の存在は大きな意味を持っていた。 京葉臨海工業地帯の重要な地点でありながら開発の遅れていた浦安地区も1964年その沿岸一帯が 埋め立てられることになり、造成事業はオリエンタルランドによって進められることとなった。 埋立計画は総面積8573千平方メートル。 工事区域を3地区に分割し、江戸川の河口周辺から市川市の境まで広大な海を埋め立てる。 道路は、浦安橋から幹線支線道路が埋立地を縦横に貫いて通る。 鉄道は、臨海鉄道が都心から木更津方面へまた地下鉄5号線が浦安町を通って総武本線と連絡する。 〔注〕1964年当時の計画〔注終わり〕 〔解説終わり〕 漁民との埋立交渉 加賀見:埋め立てをするためには、漁業権を放棄してもらわなくてはいけないんですよ。 漁業権を放棄してもらうのに、髙橋さん(後の2代目社長)がですね、 本当に日夜問わず組合と交渉に行ってですね。 当時浦安には漁業組合が2つあったんですよ。 2つの組合をどう口説くかと。片方がOKだと、もうひとつの組合はNOなんですよ。非常に厳しい交渉でした。 これは有名な話なのですが、2つの組合からどうやってOKをもらったかというと、同じ日にOKをもらったんですよ。 それは、人形町の方の料亭に、別々に(組合の方を)呼んで、それぞれ2つの組合に話をするのに 髙橋さんが行ったり来たりして、OKをもらいました。 それがあったからお互いね、その日のうちに組合と交渉しました。 お互いに思わせてサインをもらったということなんですね。 そういう厳しいところを乗り越えてきたから、今の会社があるのではないかと思います。 でもやっぱり、そういうところの積み上げが、交渉に役立ちました。 海苔のヒビをどうやって作っているかということを、理解しないと交渉できませんよね。 漁業補償などでも、1軒1軒、漁師の家に行っても、 そこの生活を理解して交渉しないと、単に表だけで交渉してもだめなんです。 やっぱり、最後は信頼関係ですよね。 最後のところはやっぱり、お互い信頼していこうということが大きいと思います。 漁師の人、1軒1軒みんなそうですよね。 だからやっぱり泥臭い仕事ですよ。二度とやれといっても、できないと思いますけどね。 浦安の埋立て 〔解説〕 千葉県と2組合との間で合意形成がなされたことを受け、浦安沖の海面埋立は、千葉県の事業として実施の見通しが立ち 千葉県と株式会社オリエンタルランドは、1962年7月に「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結。 協定締結を受けて、株式会社オリエンタルランドは、1964年に埋立工事に着工。 さまざまな苦難を重ねながらも工事は着実に進み、 1966年には現在の東野・富岡・今川・弁天・鉄鋼通り地区の埋立工事が完了。 その9ヶ月後に工事をスタートさせた現在の海楽・美浜・入船地区も1969年に完了し、 残る現在の舞浜地区の埋立工事の完了は1970年のこととなった。 〔解説終わり〕 加賀見:こんな泥水を吹き上げて、どうして陸地が出来るのかと思いました。 サンドポンプで海水を巻き上げて、2、3日すると土地になっているんです。すごいなと思っていました。 ABCと当時は言っていましたけど、こう部分的に埋め立てして、竣工して土地にしてもらったんですよ。 建設省の許可を得て、もちろん千葉県を通じてですけど。 ですから、一度に土地が出来たんじゃなくて、段階を経て土地ができたんです。 それを今度、できた土地を担保にして、隣の土地を埋め立てる。 そういう繰り返しやったもんですからね。お金がない会社がよくこれだけの土地を埋め立てしたと思いました。 264万坪の埋立事業 加賀見:国の埋立てですから、民間企業にはできないんです、県がOKしないと…。申請者は千葉県なんですよ。 千葉県が建設省に申請して264万坪、ちょっと古いんですけど坪数でいいますと、約264万坪を埋め立て申請しました。 普通の遊園地ですと2、3万坪でできます。多くても10万坪あればできます。 そんなことで、髙橋さん(後の2代目社長)の人柄がなければ、さっきの漁業補償といい、 今の許認可といい、できなかった、この土地はなかったと思いますね。 いや、もう県の協力がなければできなかったんですよ。許認可権を持ってたんです。埋立てを含めて。 ですから、鉄道用地をどうしようとか、工業用地をどうしようというのは、 千葉県のOKがないとできませんでしたからね。 京成電鉄からオリエンタルランドへの転籍 加賀見:その時(転籍)は断腸の思いでしたよ。いつ潰れるか分かんない会社に転籍するなんてね。 学校の友達が「お前大丈夫かね、この会社に転籍して。明日には食うに困るよ」と言われた記憶があります、学生時代の友達からね。 オリエンタルランドという、名もない会社でしたからね。 でも、おかげさまでこういう時代になったんですけど。 あの頃は、髙橋さん(後の2代目社長)しかいなかったんですけど、髙橋さんと二人で、 この会社をやっていこうと決めた時に、転籍を決めたんですよね。 だから失敗すれば二人ともどうしようと思いました。 失敗したらお互いに屋台を引こうや、というぐらいの覚悟で、二人で進んできた。 浦安の街づくり 加賀見:埋立地は全部で264万坪なのですが、それをどう利用するか。 当時社内で2つのチームがあって、商住地開発と、もうひとつは、交渉というのがあったんです。 ですから「商住地開発1973」で作ったものが、いまだに、その時の記録が、千葉県や浦安市のバイブルになってます。 〔解説〕 正式名称は「オリエンタルランド商住地区開発基本計画(1973)」。 1973年に京成電鉄、三井不動産、オリエンタルランドの3社で作成された都市計画書。 浦安の開発予定地を高層(A地区)・中層(B地区)・低層(C地区)の 3つのエリアに区分け、高さの制限を設けた。 当時としては新しく、新浦安地区は高層ビル群、舞浜地区に向かうにつれて中層、低層とし、 パークからの景観を見越して整備計画を立てた。 今のパークの世界観の維持に繋がっている。 〔解説終わり〕 加賀見:それで今になって良かったなと思うのは、今、社内ではビジュアルイントリュージョンという、 外観の見え隠れという、当時はそういう言葉はありませんでしたが、 ルーフラインといっていたんですね、屋根のラインですね。 〔注〕 ビジュアルイントリュージョン テーマパークの世界観を保つため、テーマパークの内外から不要な景色が見えないように工夫し景観を保つこと。 〔注終わり〕 埋立地の新浦安はA地区、真ん中はB地区、遊園地はC地区だったんですけど、 A地区は高層住宅街で、B地区は中層、C地区は低層ですね、1種住専で。あとは遊園地です。 ですから、そういう形でですね、レジャー施設を作るのも、 最初からそういう形で屋根の高さを制限があったので良かったと思います。 民間会社が、そういう都市計画を作るのは(珍しい)、普通は国なんですよね。 民間企業が都市計画からスタートしたというのは珍しいことです。 ですから、264万坪埋め立てて、鉄道とか道路とか学校用地、それをまずキープして、 それから、オリエンタルランドとしては、遊園地を決めました。 最優先に公共施設用地ができて、ですから、学校用地も鉄道も道路も、非常によくできているんですね これはやっぱり(そうした施設を)優先して建てないと、他の開発ができない、 後からそういうものを作ると土地を使うので、思うような形ができなかったと思います。 ですから、浦安は道路などは直線で良くできているんですよね。あと、鉄道用地などもちゃんとできています。 以下、3本目に収録 夢の力で動き出す 加賀見:きっかけは、川﨑さんが、昔、谷津遊園に東洋一のバラ園があって、 バラの新種をアメリカに買いに行って、その帰りにディズニーランドに寄ったんです。 そうしたら、そちらの方に気持ちがいってしまって、「こんな素晴らしいものがあるのか」ということで…。 普通ですと、「あぁすごいね」で終わってしまいますが、芸術家タイプの川﨑さんは、 それを「日本の子供たちに見せたい」という発想になったんです。 オリエンタルランドはまさに川﨑さんの夢がなければだめだったと思うんですね。 そこでたまたま、髙橋さんという2代目社長ですが、川﨑さんの次の社長(となる方)が入ってきまして、 川﨑さんと髙橋さんの2人が意気投合して。だからその時の二人のやり取りを見て、僕は心が動きましたね。 全く仕事に関係なく、二人で、阿吽の呼吸で仕事を進めていくっていうところがですね。 良いことも悪いこともありましたけどね。 株式会社オリエンタルランド 初代社長 川﨑千春と二代目社長 髙橋政知 〔解説〕 川﨑 千春(1903−1991) 日本にディズニーランドを誘致する構想を提案した人物であり、誘致にも中心的に関わった。 京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で従兄弟に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。 川﨑自身も「油絵で薔薇を描かせたら天下一品」と評されるほどの芸術的才能を持っていたという。 〔解説終わり〕 加賀見:川﨑さんはやっぱり、芸術家タイプです。 川﨑さん自身もバイオリンを弾いて、奥さんがピアノを弾くんですよ。 そういう家庭ですから、まさに芸術家一家ですね。そうした優雅な生活をされた、川﨑さんですけどね。 〔解説〕 髙橋 政知(1913−2000) 1961年にオリエンタルランドに専務として入社し1978年8月に第2代社長に就任した。 千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けた補償交渉を地元漁業協同組合などと進めた後、 東京ディズニーランドの建設に向けてディズニー社との交渉を担当した。 その後、東京ディズニーランドの成長に貢献し、リゾート化の礎を作った。 東京ディズニーシーの完成を目前にした2000年、1月31日心不全のため死去。 父は、台湾総督などを歴任した太田政弘。 〔解説終わり〕 加賀見:髙橋さんは全く正反対で、朝から晩まで酒を飲んでいましたね。 そういうふたりが本当に意気投合して、この事業を成功させようとしたんです。 京成にいた頃ですけど、漁業補償の飲み食いでお金使うわけです。 その時に川﨑さんのところへ領収書を持っていくと、無条件でサインしてくれて、 「どんどんやってくれ」という感じでね。 その辺の阿吽の呼吸というのが、ふたりはすごかったと思いましたね。 髙橋さんのお父さんが有名なのは、台湾総督だったんです。 そういう歴史があって、その髙橋さんに(リーダーシップの)血が流れたんですよね。 だから、漁業補償などでも絶対相手を味方にして、髙橋さんが言うならしょうがないっていうことで、 結局サインをした漁業組合もあるんですよね。 最後まで反対した漁師の方もいます。 そうしたところに一升瓶を担いで行って、1軒1軒口説きにまわりました。 そうしたところがなかなか真似できないところだと思いますね。 夢に向けて私財を投じる 加賀見:東京ディズニーランド誘致の経緯は川﨑さんがアメリカ、ロサンゼルスのディズニーランドに行って気に入って、 これを日本の子供たちに見せたいと思ったのがスタートなんですよね。 ですが、お金もなくて土地もなかったので、まず土地を作ろうということで、 京成電鉄として埋立事業に参画したんです。 そして、お金もないのによく続いたなっていう感じなんです。 その時はやっぱり、髙橋さんの財産を、結構、使わせてもらいました。 色々な美術品などもありましたので、それを売って、なんだかんだやりました。 (私は)それを全部知ってます。よく、僕にはオープンにしたなと思います。 髙橋さんは僕には何でもしゃべってくれましたので。 半分は仕事の面もありましたけど、半分はお酒を飲んでしまった部分がありますのでね。 千葉県の協力 〔解説〕 東京ディズニーランド誘致に尽力した元千葉県知事 友納 武人 在任期間:1963年-1975年 千葉県の発展のため工業化を推進。副知事時代から、京葉臨海工業地帯をはじめ、 千葉ニュータウンの計画など、積極的な開発政策を推し進めた。 川上 紀一 在任期間:1975年-1981年 成田空港開港や東京ディズニーランドの誘致に尽力した。 東京ディズニーランドの誘致は、千葉県の悲願であり、何としても実現するよう努力してもらいたいとの考えを示した。 株式会社オリエンタルランドからの要請により、沼田副知事を融資依頼へ同行させることとした。 沼田 武 在任期間:1981年-2001年 東京アクアラインや幕張メッセ、かずさアカデミアパーク、道路網などの社会基盤整備を推進した。 各金融機関に、この東京ディズニーランド事業については、千葉県が全責任を持つと説明。 〔解説終わり〕 加賀見:実質的にやっていたのは当時の沼田副知事で、後にすぐに知事になりましたけどね、 沼田さんがいなかったら大変だったなと思っています。 お金がないので沼田副知事に、銀行回りをしてくれと頼んだことがあるんですよね。 もちろん頼んだのは髙橋さんですけどね。 髙橋さんが言うんだから、俺が行くかと、銀行に行って、最初に行ったのは日本興業銀行、今のみずほ銀行ですよね。 日本興業銀行に菅谷さんという副頭取がいまして、菅谷さんのところに行ったら、 「髙橋さん、あんた、沼田副知事をどうやって動かしたんだ」と。 「副知事がいち銀行に挨拶に来てお願いするなんてないよ」って言われましてね。 そのくらい髙橋さんと沼田知事も関係が深かったんですね。 沼田知事が、埋め立てたのだから、思うとおりやろうよって言って。 沼田知事が、髙橋さんと本当に意気投合した仲間だったんですよね。 私は鞄持ちですから、一生懸命ついていっただけですけど。 友納千葉県知事の協力 加賀見:沼田知事になる前に友納さんは内務官僚的な感じがして、なかなかOKしてくれなかったということはありますが、 私どもは友納さんも口説いて、OKをもらったってことは間違いないと思います。 ですから歴代の(千葉県)知事に協力していただいたということは間違いないと思いますので。ありがたいことですよね。 友納さんは工業の方に力を入れてましたから。 川鉄だとか、五井の方に、そちらの方が(規模が)大きいですからね。関心があったと思うんですよ。 当時、千葉県はご存知のとおり、友納さんと沼田さんが築かれていましたから。 おかげさまで、うちの方も当時の建設省が協力的でした。 日本興業銀行 菅谷隆介副頭取の協力 〔解説〕 1979年、ディズニー社との契約調印をひかえて直面していたのは、東京ディズニーランド・プロジェクトを推進するための資金繰りだった。 数百億円とされていたパークの建設資金は、思うように調達が進まず、資金調達に奔走する日々が続くなか、東京ディズニーランド事業を 県政の事業の大きな柱と位置付けていた千葉県の後ろだてを仰いだ株式会社オリエンタルランドは、 1979年4月、当時の沼田副知事とともに日本興業銀行(当時)を訪れた。 そこで菅谷隆介副頭取に、これからはサービス産業など新しい分野の育成に携わるべきであり、 東京ディズニーランド・プロジェクトを“心の産業”と位置付け、温かく迎え入れられた。 同行の呼びかけにより、1980年7月に22の金融機関による協調融資団が結成され、 プロジェクトの資金調達に大きな足掛かりを作ることができた。 協調融資団なくして、今日の東京ディズニーリゾートは存在しなかったともいわれている。 〔解説終わり〕 加賀見:日本興業銀行の副頭取の菅谷さんには、僕は本当に世話になりましたね。 菅谷さんから電話がかかってくる時は、交換台を通さないで直接電話がかかってくるんですよ。 それで最初は「菅谷だけど」と言われてもどこの菅谷かわからないわけですよね。 日本興業銀行のと言ってくれればわかったのですが。 そのぐらいダイレクトで、いろんなことやってくれましたね。 1番大きいのは日本興業銀行の融資が決まった時、協調融資団を形成しようという時に、 普通、銀行は会議室を貸してくれないので、ホテルの会議室などでやるのが普通ですけど、 菅谷さんは俺んとこ(日本興業銀行の)会議室でやれよと。 日本興業銀行の会議室で説明会をやるということは、 他の銀行は日本興業銀行がサポートするんだったら間違いないと思うわけです。 ですから、菅谷さんが亡くなって、奥さんもまた亡くなりましたので。結構古い、長いお付き合いしてました。 菅谷さんは、これからの銀行はお前みたいなところにお金を貸すのが銀行の使命だよと。通常に貸したんじゃ意味がないと。 こういう新しい事業に貸してやっていくのが日本興業銀行の使命だと、そこまで言ってくれましてね。 ですから、菅谷さんがいらっしゃらなかったらお金が続かなかったと思いますね。 歩みを続ける夢の力 加賀見:信念というか、やはり、基礎は髙橋さんと川﨑さんの夢ですよね。日本の子供達をハッピーな気持ちにさせたいという。 それがなかったら、単に金儲けだけだったら、できていないと思いますよね。 損をしても子供達にどういう夢を与えられるかということが、本質的にあると思うんですね。 ただ、夢だけでやったら会社は潰れますので、やっぱりそこに、 どういう形で利益をキープしていくかということが大きいと思います。 夢ばかり追って、会社を潰してしまうと、意味がないですからね。 やっぱりその辺の舵取りが、どこでどう利益をつなげるかというのは、難しいと思いますね。 なんだかんだいっても、髙橋さんの夢をどうつないでいくかと。 私も夢を追っています。 東京ディズニーリゾートは永遠に完成しないんですよ。常に変化しているんです。 だから長生きしてるんですよね。完成したら終わりなんですよ。 だから常に夢を追って新しいものを、もちろんアイディアもそうですけど、検討して、 とことんそこで、まず夢を描いて、そして、採算に乗るかどうかということをやって、次なるステップへいくと。 これは元を正せば、ウォルト・ディズニーの考えですよね。夢がある限りディズニーランドは続くと。 まさにそこだと思うんですね。 この考え方がやっぱり根底にあるので、ディズニーもオリエンタルランドも、ここに続いているのだと思います。