幕張メッセのオープン(前編・後編) 生越 雅彦 氏 生越 雅彦 氏 昭和44年 入庁 昭和59年 千葉新産業三角構想推進室メッセ事業班主査 平成13~14年 企業庁長 聞き手 吉田雅一知事特別秘書 聞き手:テーマは「幕張メッセのオープン」です。お話を伺うのは生越雅彦さんです。 生越:昭和58年の4月から私はメッセ担当ということで、辞令を受けました。 初めて文書で提案があったのが、昭和57年の10月にジャピックっていう経済団体ですね。 JAPICかな、日本プロジェクト産業協議会という団体が、 これは主に日本の基幹産業等が中心になって、政策提言をするそんな団体なんですよ。 そのジャピックから、提言がありまして、「首都圏で、新しい形の見本市会場いくつかの中で、 幕張は新都心構想が始まっていましたので、 成田空港にも近いというようなこともあって、非常に有力な候補地じゃないですか」 というような提言が提言書として初めて知事あてに文書が届いたのが、 昭和57年の10月なんですよ。さっそく県も動きまして、実は企画部の中には、 メッセ構想について議論があったんですよ。 ところが外部から正式な形でその提案があったのが さっきのジャピック提案ということになります。 聞き手:具体的にはどのように取り組んだのでしょうか。 生越:まず、千葉でメッセ構想について本格的に検討を始めたということを、 関係の団体や企業に、まずご理解いただくということが先ということで、 まだ本当にもう絵でしかない構想であったんですけども、簡単なパンフレットを作りまして、 まず業界団体、それから関係する国の省庁、ここにまず回ると。そこから始めました。 それは昭和58年。合わせて私どもは大規模イベント、展示会ですね。見本市。 これをターゲットにしようということで、その見本市の関係主催者ですね、 ここに随分通いました。もちろんモーターショーを主催した団体、当時は自工会、 自動車工業会の中に、そのイベント、展示会だけ専用の部隊として自動車工業振興会 という組織があったんですよ。東京の大手町ビルの中にあったんですけどね。 ここには頻繁に通いました。それから、当時日本で代表的な見本市としては、 エレクトロニクスショーというのがあったんですね。 今それがさらに大きくなって、シーテックという今年の10月にも 幕張メッセで4日間ですか、開かれましたけれども、 その前身であるエレクトロニクスショーこれが、電子電気業界では有力企業が ほとんど出展するという非常に大きなイベントだったと思うんです。 ここはひとつターゲットにしようということで、頻繁に情報交換しました。 偶然なんですけれど、そのエレクトロニクスショー、私どもエレショーと言ったんですけど、 エレショーの事務局が最初に幕張メッセ構想に関心を持っていただきまして、 随分県庁にも通ってもらったんですよ。逆に私どもも事務局には通って そのエレショーがどういう施設を望んでいるかということも徹底的に聞かせてもらいました。 ですから非常に協力的で、あのエレショーは実はですね、 何としても幕張で欲しいイベントだったんですね。見本市だったので。 実はそこの事務局長がたまたま千葉県の出身の方ということもあったりしたこともあり、 最後は事務局長ヘッドハントですね、メッセの社員として迎えたんですよ。 そこまでやりましてね、オープン時に間に合わなくて、 メッセがオープンして3年目くらいでしょうかね、 エレショーが幕張で第1回開催をやってくれました。 それに関連して言いますと、当時あのメッセよりも4年先行して大阪の南港という 埋め立て地に出来たインテックス大阪という、5万平米を超える大展示場があったんですね、 ここは非常に勉強させていただきました。 建設段階から見せていただきました。施設の工事中から。 聞き手:それは大体いつ頃できたんですか。 生越:メッセのちょうど4年ぐらい前に先方が先行オープンしまして、 ですから随分助かりました。大イベントは関東圏で開催する時は幕張でと。 関西や西日本でやる時はインテックス大阪というようなこともありましたんでね。 どちらかって言いますと私ども一方的に教えをいただいたんですけどね、 ですからインテックス大阪の施設は随分参考にしています。 聞き手:海外なんかはどうだったんですか。 生越:海外は、先程のお話の時系列で言いますと、昭和58年は担当者が企画課の中に置かれた年の 6月にまず海外施設を見てみようということで、25人の視察団が編成されまして、 当時副知事が団長で、私も担当ということで、その下にくっついて行ったのですけれども、 これは非常に勉強になりました。 ヨーロッパのですね、当時は西ドイツの時代であったのですけれども、西ドイツでは国際的な 最新の超巨大な会議場を中心としたイベント施設ですね、コンベンション施設。 それからあと有力な3つの都市のメッセ会場、これをつぶさに見させていただきまして、 そこでその建設費の負担、土地の提供をどうしたのかというようなお話から、 運営状態まで調査してまいりましてね、そこでわかったのはとにかく公設、作るのは公、 運営は民間。すべてが公設民営なんですよ。有限責任会社と言っていましたけれども、 現地のドイツではですね。日本で言ったら第三セクターの株式会社ってことでしょうか。 ほとんどそういう形態。出資も地元の市が大体7割から7割5分ぐらいで、 1割くらいがその市が属している州なんです。こんな感じなんです。そこがお金を出して 建物を作り運営はその有限責任会社がやると、こんな形だったんですね。 ですからそこを見たときに、とにかく地元の市、県が主体的に作らないと メッセはできないなということは感じましたね。 聞き手:実際いかれて一番感じた部分、先程利用される側のことというのも、 多分後々の施設の内容の中ではそれが反映されたと思うのですが、 私が一番気になったのは、メッセって名前でした。 コンベンションホールは何となく分かるのですが、 私もその時も現役の県庁職員だったものですから、 この名前どこから来たのっていうのがありましてね。 生越:非常に面白い話がありまして、私がその視察団から帰って2、3か月後だったでしょうか、 あの「現代用語の基礎知識」というのがございますね。 自由国民社という出版社が発行しているんですけど、年1回発行で。 そこから電話が掛かってきまして、県庁に。電話が私の所に回ってきまして、 「メッセとはどういう意味ですか」とこういう事なんですよ。いやメッセとはこういう事です、 まあ30分くらいでしょうかね、やり取りしたんですけれどね。 そうしましたら、その翌年の昭和59年の1月発行版の「現代用語の基礎知識」 に載ったんですよ。【メッセとは常設国際見本市】常設なんですね。 その後に「5万から10万平方メートルのメッセ構想が千葉県で出た」と、 そういう書き方なんですよ。当時のね、 今どんな書きぶりになっているかわかりませんけれど、そんな書き方で。 ですからそれを短く略すと、「メッセとは幕張メッセのことをいう」と。 こういう風に取れるんですよ。 聞き手:視察も終わって、現代用語にもなったりということで本格的に動き出した訳ですけれども、 建設に当たって外国のを見たりとか、あるいは使われる方の意見も聞いたりということで、 どんな事に気を遣われたんですかね。 生越:建設用地、これをどういう風に確保するかと。 用意するかということでした。 当時ですね私どもの試算ですと大体建設費が400億前後かなと、 こんな風に弾いていましたね。 それにその額と同じぐらいの土地費用を自ら準備するとなったら とてもこれはできないということで、まずその用地、用地、土地の手当て、 これはもう県のですね、当時は企業庁で造成している土地。 ここのお世話になるしかないのかなと。こんなことを企画部では考えていましたね。 最初はなかなかね、厳しい答えが返ってきまして、 企業庁の事業の仕組みを分かっているのですかということまで言われちゃいましてね、 いや、さあて困ったなという時期も途中ございました。 概算で400億円なんですが、財政課がいらっしゃって、 単独の県費で負担する予算の限度額っていうのがなんとなくこう、 やり取りで分かってきますね。県費だけで負担する限度額が300億くらいある、 こんな風に試算していましてね、そうするとどう考えても100億足りないんですよ。 さあ困ったということで、民間に第三セクターの会社を、運営会社を早めに作って そこにその施設の一部を持っていただくと。 こんな方法や方式はどうかなということが議論の中から出てきたんです。それが 比率にすると300億対100億、3対1の負担でその400億を賄っていくということなんです。 その結果、資本金が40億円という非常に大きな資本金を抱えた第三セクターに 結果的になったんですね。過大かなという認識は当初からあったのですが、 後で考えてみますと、あの100億のうち40億を出資金で集めたと。 協力いただいて非常に良かったんですね。良かった点はですね、 その民間負担分の17億あまりだったんですけども、四十数パーセントね。 この負担をいただいたんです。有力な大型展示会の主催者と団体にお願いしたんです。 モーターショーの主体である自工振、今では自動車工業会に、 自工会に統合されましたけれど。自工会がその1億を出資金として負担をしてくれる。 あと有力なその出展者になるだろうという業界にかなり出資をお願いしまして。 モーターショーの主催である自工会さんは資本を出すだけじゃなくて、 会社に役員も派遣していただくと。非常勤の役員をね。こんな形でこれは結果的に 非常に良かったなと思っています。 昭和57年に首都改造計画というのが、国土庁が進めてまして、これをまとめたんです。 その中の支援施設、支援措置としてその業務核都市、千葉も業務核都市なんですね、 業務核都市の中に先導施設として第三セクターを作る時には出資と融資ができるという 特別の制度改正があったんです。 その大きな出資金という形で当時国土庁の政策を具体的に金融面で支援する 銀行が当時の日本開発銀行、今は政策投資銀行に変わっていますけれど、 日本開発銀行がその出資、融資という形で、非常に深く関わっていただく、 ご縁をいただくという風になりまして、 そういう意味ではその第三セクターを早めに作ったということと、 やや無理かなと思われるぐらいの大きな出資金にしたこと。 結果的には私はそれで良かったなと思っていますね。そんなことがありましたですね。 以下、2本目に収録 聞き手:実際そのイベントに関しても、誘致っていうのがセットの中でも 資金集めをした部分もあるのかなというように思うのですけれども、 イベントの誘致というのはこの幕張メッセのオープン後に大変重要になるので 施設を造るんですが何に使うんですかっていう議論は当然されるとは思うのですけれども、 イベントの誘致に関して先程もちょっといくつかイベント内容が出てきましたけども、 そのお話をお聞かせ願えたらと思うんですけれども。 生越:ドイツを中心に視察した時に、こういうことがあったんですね。メッセというイベントに参加 するお客さんは、その街に5日間、1週間と滞在して非常に街にお金が落ちるんですね。 ホテル飲食から始めてですね、ところがその施設自体にはお金が落ちないんです。 非常に大変ということが分かってましてね、いわゆるそのトレードショー、専門見本市ですね。 単に商品を眺めるんじゃなくて、そこでも商談がされる。 そういうトレードショーを目指そうと、幕張メッセは。 ということがあったんですが、まずそれには、「ここにメッセがあるよ」と、 「使い勝手はこうですよ」ということを広く分かっていただくにはパブリックショー、 ですから最初に私どもが狙ったのは先程話したエレショーはかなりトレードショーに 近いイベントですよね。日本の最大のパブリックショーは、東京モーターショーだったんですね。  晴海時代120万人が集まっていましたから。最初の狙いは、 その欲を言えばトレードショー、要するに専門家が集まってきて、 3日、4日、1週間その街に会場周辺に滞在していただくと。これを狙ったんですね。 結果的には両方の代表的なイベントを狙う、狙っていたということになりますけれども。 それにはですね、私どもが東京の業界団体をパンフレットを持って売り込みに 歩いたんですけれどね。見本市の事務局に行くとまずおっしゃるのがですね、 使い勝手ですね。それまでの施設が非常に使い勝手がよろしくないということで、 とにかく使い勝手のいいものを作ってほしいということと、最初にどこが行くのかなと。 要するにやっぱり幕張が都心から比べて遠かった、遠いイメージがある。 晴海で開催しているイベントが幕張に移った時にどのくらい集客があるのか、 みんな見ているんです。幕張メッセに最初に行きますってこと、どこもなかった最初は。 ですから私どもは、その最初に開いていただくモーターショーに非常にこだわった というのはそこなんです。当時平成元年に幕張の会場でモーターショーを開いたのですが、 イベントは当時は隔年開催なんです。2年に1回開かれていました。私どもは、 集客がどのくらい来るかってことなんです。 歩留まりを見てたんですね。幕張に来る前、平成元年の2年前に晴海で開かれた時が 約130万人、入場者が。ですから130万人がどれくらい減るかと最大の関心事は。 それが2年後の幕張で開いた第1回のモーターショーが190万人を超えたんですよ。 2回目は200万人ちょっといきました。これで躊躇していたイベントの主催者がですね、 千葉に行っても集客が落ちないと。むしろ増えるということが立証されたんですよね。 ですからあのモーターショーの意味って非常に大きいんですよ。 幕張メッセの設計は、コンペでやったんです。 設計コンペで。そこの審査委員会の下部組織として専門委員会を作ったんですよ。  そこに事務局の代表者に1名委員に入っていただいて、 あのイベントの主催者はどういう施設を望んでいるかってことを徹底的に、 そこで説明していただきまして、審査委員の先生の前で。そんなこともありましたね。 ですからここ幕張くらい大型イベントで使いやすい場所、私は無いと思っています、今でも。 具体的にお話しますと、これは基本設計が終わった後なのですけれど 「実はもうひとつ大変なお願いがあります。」「何ですか」と言いましたら、 展示会をする時に搬入のトラックが一方的に展示場に入って来ますね、 メッセの場合南口から、8つのホールそれぞれ1か所ずつありましてね。 大型トラックが積み荷を降ろすと、Uターンをしたりバックしたりして、 同じ出口からまた帰ってくるんですよ。それを入った車がね、その展示品を降ろしたら、 それも反対側に抜けられるようにしました。 大型トラックが反対側に抜けられるように、それから急遽設計変更。 全部やりました8ホール。これは大変なことでした。 そこまでやったんですよ。ところがそれによってですね、 ものすごく仕込みと撤去の日にちが短縮できたんですよ。 あそこは1週間くらい掛かるんですよね。おそらく1日、2日短縮されたはずです。 聞き手:臨時駐車場がすごかったですよね。来場者のね。 生越:モーターショーの時は常設が6,000台。その他に1万台を用意したんですよ。 当時は周りに空き地が結構ありましたから。 途中から県庁の各部局もこぞってメッセに、協力していただきまして、 メッセの会場オープン前の最大の問題は、特にモーターショーの場合は 8割の車が下りで来る、東京方面から。それをね1本の東関道で捌く。 県警から言われたのは、「とにかく東関道上に渋滞の尻尾を残さないでもらいたい。」 「東関道で降ろした車を、駐車場にどんどん吸い込んでくれ」と。まず6,000台。 一杯になったら他に分散した、仮設駐車場に回すと。こういう作戦だったんですけどね。 東関道ここでの渋滞が心配だと。どうしたかと言いますと、土木に積極的な男がいまして、 建設省に掛け合って側道を作ったんですよ。半年くらいの間に。 下り車線の車を分けてメッセ行きの車を全部そこで降ろしました。 それからもうひとつあるんです。曲がって東京から来て右折の道路に乗ると、 駐車場が右手にあるんですよ、右折れ。そこが危ないとの注文がまた付きまして、 どうしたかというと、それは海に向かっていく車を全部左に寄せて、 その高架で渡らせたんですよ。この大工事、これもうん十億円。 これは企業庁にやっていただきました。 とにもかくにもメッセの安全安心が間違いないオープンの為にはどうしたらいいか、 県庁のもう本当に関係部署に全部こぞって応援していただきまして、 これは大変なパワーになりました。 聞き手:設計にあたってメッセは意識したところってあるんでしょうか、 あの著名な方が設計をされていますけれども。 生越:設計は、建築設計会社7社で、7人の方にお願いして、 指名競争の設計ということになったのですけれども、設計の条件として、使い勝手、 これはいくつかお願いしまして、それはもう全部クリアした上で設計していただく ということでやりまして、槇文彦先生の作品が合格になったのですけれど、 当時は国内より海外で著名な方だと言われてまして、 随分立派な施設を設計していただきまして、色んな建築賞をいくつかいただいてます。 ただ一方で、アトリエ系の設計事務所という言い方があるんですけれども、工事が非常に 大変だということと、維持費がしっかり掛かるというようなお話があるんですけれども、 あの工事の点では、設計会社の皆さん、県の企業庁を中心とした建築技術の皆さんが 本当によくやっていただきまして、あの短い工期で、普通4年掛かると言われていたんですよ。 それを2年でやっちゃいましたから。随分、思い切った事もやりましたけどね。 ですから、設計会社と協議しながら時間をかけてこれまでね、改善を加えてきています。 あれだけの超短期間の大工事で、とにかく無事故で事件がなく、事故がなくという、 もうそれだけ願ってましたね、私は。 式典が終わった日は本当にね、ほっとしたっていうことですね。 メッセでは大きな事故が無かったですからね。 聞き手:それでオープンしてからもモーターショーもそうですけれども、 イベントがずっと続いていたじゃないですか。 テレビ放送見ると「会場:幕張メッセ」と出るんですよね。 なんか千葉県の職員としてもね誇らしかったですね。すごく思い出ありますね。 実際本当に多くの方がよーいどんでいっぱい来られましたですよね。 生越:そうですね、10月9日がオープンで、オープンの日を含めて2日間かな、 オープニングイベントという事で、2日間で二十数万人が集まったんですけども、 イベントそのものよりも、メッセという施設を 県民市民の皆さんにご覧いただきたいと、こんなことで考えてまして、 非常に多くの方にご覧頂けてとても良かったと思っています。 聞き手:メッセの関係は本当にご苦労様でした。ああいう仕事をやるのは、 県の職員でも滅多に無いと思うんですよ。 実際にオープンの為に奔走した6年半ということを改めて振り返ってみて、 どのような思いかというのは私も個人として聞きたいものですから。 生越:正確には私1年抜けた期間があったんですけど、通算で7年関わらせていただきまして、 結果的に、教科書に無い事業、中々チャンス無いと思うんですね。 非常にラッキーだったなと思っています。 聞き手:生越さん本当にどうもありがとうございました。