かずさアカデミアパークの推進(中野 英昭 氏) 中野 英昭 氏 昭和41年 入庁 平成3年 かずさアカデミアパーク推進室室長 平成11年~13年 企業庁長 聞き手 吉田雅一知事特別秘書 聞き手:本日はかずさアカデミアパークの推進をテーマに中野英昭さんからお話を伺います。 かずさアカデミアパークは千葉県新産業三角構想のひとつで、上総丘陵の 豊かな自然の中に様々な研究開発機関が集まるサイエンスパークとして誕生しました。 中野さんはかずさの立ち上げから関わったと聞いてますけども、 まずお聞きしたいのですがアカデミアパークが目指したものは何だったんでしょうか。 中野:俗に官の筑波に対して民の上総というような言い方を外部に向けてはしてました。 実際は、東京にある大きな大学ですね、いま筑波大学になっていますけれど、 そういうのとか東京にある大きな研究所、言い出すときりないのですが、 東京に一極集中してるのを筑波に移そうということでできたのですね。 ですからもう土台比較になるようなものではなく、気持ちのうえで官の筑波に対して 民の上総という意気込みで始めたという事であります。 聞き手:私も聞かれると民の上総って必ず言うのですよ。 筑波との比較の中で話す事は多かったですね。 かずさアカデミアパークの目指したものについて伺わせていただきました。 それではかずさアカデミアパークというプロジェクトが 立ち上がった背景を教えていただけませんか。 中野:言うなれば、半島性ということですかね、館山の方までっていうのはずっと先ですから、 ただそれが千葉県にとっての大きな課題だったんですけど、 たまたま東京湾横断道路とか県内のいろんな高速道路網がかなり完備して、 そのうちのひとつは千葉から館山のちょっと手前まで行くような、 そういうのがだんだん目途ができてきたというような事があります。 それで一番大きいのは、やっぱり対岸の川崎と千葉を結ぶ15.1キロですか、 金額的に言うと1兆4,400億円かかるという、 ビックプロジェクトが実行されそうな計画が出てきたので、 まさに千葉県にとっては夢の懸け橋ということで それを受けて折角そういうのができたのだから、 その着岸地にかずさアカデミアパークのような物を造ろうということで 実現に向かってきたという事ですね。 聞き手:そんなかずさアカデミアパークを造るにあたり、 意識されたこと、取り組んだことを教えていただけますか。 中野:ともかく山の中にこういうものを造ろうという事ですから、誰でもが知ってるような 超一流企業ですね、そういうものを誘致しようということを一番考えました。 超一流企業を誘致するということにはやっぱり目玉になるような施設があるのなら 自分たちも出ようじゃないかと、 そういう気持ちになってもらうような施設が必要で、 その一番大きなのがDNA研究だったということです。 正直言ってすごい苦労しました。DNAは今は誰でも知っている という言葉ですけど、当時は「DNAって何」という時代だったわけです。 そんな時にDNA研究所を造ろうというのは、そもそもDNA研究所という名前で ここに立地するようなことになった事自体が、色々苦労したことです。 本当にお世話になった方を紹介しておきたいと思うのですが、一番中心になったのは、慶應義塾大学の名誉教授で、渡辺格(いたる)先生がいらっしゃいまして、 東大教授もやり京都大学教授、それから慶応大学の教授になるという、 それで日本の分子生物学会の会長とかをやった方で、本人が偉いばかりでなく、 お弟子さんがすごいのですよ。後で話に出て来るノーベル賞学者の利根川進先生が 筆頭で、それ以外にも千葉大の後に医学部部長になった先生とか、 京都大学の所長になる高浪満(みつる)先生とか当時の日本の超一流の先生方、 これがみんな門下生なのですね。 利根川先生の事では実は知事に怒られたことがありまして、 まさに今言ったような先生方とほかのいろんな偉い人達で、会議があったのですね、 それで昭和62年にノーベル賞を受賞されたかと思うのですけども、 その数年後だったものですから、まだまだマスコミの方々が頭にあって、 会議の取材のために大勢記者が詰めかけて来たのですね。 そうしたらそこで何をおっしゃりだすのかと思うと、「このDNA研究所を今後も 立派にやっていくためには、毎年2,30億かかるのではないか」と。 「そのためには、県が500億円とか1,000億円という、まとまった基金を作ってくれないか。 そうすればその基金の利息だけで2,30億円はでるだろうから」という事をおしゃった。 ところがですね知事は非常に慎重な方ですから、 そういう所で簡単にうんって言わないのですよ。 先生の方も全然それにこだわっておられるので、 下手するとこの会議が暗礁に乗り上げてしまうのではないかというような事があって、 私は当然それのメインの会議ではなくて、その外側に座ってたのですけど、 思わず手を挙げて、「利根川先生」と言って 「県庁の予算っていうのは1兆円を超えてるのですよ。毎年毎年1兆円を出せるのだから そのうちの2,30億円というのはDNA研究所ために必ず支出できますから」って 言ったら、「そういう事ならなんでそれを早く言ってくれないのだ」といったようなことで、その後順調に記者会見なんかも上手にやってくれたのですけれど、 企画部長は私の上司なんですけど企画部長から県庁帰ったら「知事が大怒りだったぞ」と。 「何ですか?」と言ったら「20億、30億は知事といえどもそういう予算化をね、県議会を 通さなくちゃいけないわけですからそんな簡単な話じゃ無いぞ」と、いうことでですね、 でも私は別に怒られたって構わないと、それであの会議が順調に進んだのだから 私はそれでいいと今でも思ってますけどね。 聞き手:先程からDNA研究所の話は伺いました。それ以外にも、かずさアカデミアパークの 中には目玉事業があったと思うのですが、その辺りを教えていただけますか。 中野:いわゆるセンター施設があって、それはいろんな施設が複合的にできているもので、 そのうちの大きな柱が一流のホテルだったのですね。 要はその立派な研究所ができて、そこで色々な研究員が働く、 それからDNA研究所ができる、そうするとあそこで学会ですね、 学会を東京で開く、千葉で開くじゃなくて、上総そのもので学会を開く。 そのためのホールを造らなきゃいけないという事で、 センター施設というのやっていたのです。その中で非常に苦労したのが いわゆる一流ホテルというのを招くのに真っ先に思いつくのは帝国ホテルですよね。 帝国ホテルってのはあんまりあちこちにないのですよね。 それであんまり相手にしていただけなくて、それでホテルオークラ。 これが最後に実現したんですけど、ホテルオークラにもちょうど 帝国ホテルに行った時のように年中入り浸って交渉していたのですね。 それで最後は向こうの社長とか会長と当時の知事に会っていただいて、 一緒に食事会をやって私それに列席してたのですけれど、 県庁じゃ中堅職員ですから知事やそういうお偉い人達が出るような食事会ですから、 本当に折角の豪華な食事が喉を通らなかったというようなことを覚えてますね。 聞き手:企業を説得するってのは大変だったと思いますが、 その辺りの現状、取り組みについて教えていただけますか。 中野:これは私自身が本当に主幹になって最初に考えたのが、 山また山のあそこに造るって言われても本当に実感としてわからないわけです。 それで現地に展望台を作ってそこから東京湾越しに見える風景とか 反対側には山、また山の広い景色が見えるところで、展望台を作りたいと。 実は展望台の予算は厳密には覚えていませんけど、 大雑把に言うと、1,000万ぐらい掛かった。 1,000万と言うと、大したことないじゃないかと思うかもしれませんけど。一主幹が 1,000万円の予算をかけて作るって言った時は、私とすると本当にもう荷が重かったですね。 それで本当に今でも覚えているのが、かずさ関係の技術系の職員が 展望台を設計してくれたのですね。 それが最初は12mぐらいだったのですよ。 ただ私自身せっかく12m作ってみたら、その先に見える山林が見えるだけで、 その前が見えないのでは困ると思いまして、色々やって最後はですね、 ゼネコンが現場で使うクレーンみたいに釣りあげてもらうものがあるのですよ。 それをあの山の中に持って来てもらって、自分の体を釣り上げてもらって、 それが大体18mぐらいの高さになると、東京湾とか、対岸、そういうのも見えると。 それで、そこにいろんな企業の方とか将来的には 学者の先生方とかにも色々上がってもらって、 この辺りが富士通ですよ、この辺にDNA研究所ができますよ とかいうようなことを話したのですね。 だから当時の私としてはすごい苦労したということがありますね。じゃあその展望台が できるまでは何にもしなかったのかと言えばそんなわけにはいけませんから、 近くに君津広域水道企業団っていうこれは君津地区の4市全部に水道水を配る団体で、 あの山の上にその貯水タンクがあるんですね。ものすごい大きな施設なんですけど、 そこに興味のある人は来て、そこによじ登ってもらって、 その中にはたとえば富士通の取締役の川崎工場長という偉い方がいて、 わざわざよじ上って、ただその頃はまだまだあの辺は交通不便なところですから、 川崎から来るって言ったら東京を通り越して千葉まで、それから木更津まで来て、 それで木更津の山の中へ来たら、その中の貯水タンクに登らされたっていうことですね。 今思うとよく来てくれたなと思いましたね。 聞き手:かずさアカデミアパークの立ち上げ責任者としまして、 5年間務められた中で特に思い出に残っている事を教えていただけますか。 中野:ここではちょっとご披露しておきたいホールの関係なのですけど、 センター施設の中は、ホテルもあるしあの会議室もある、それからホールもあるし、 そこで学会なんかをやろうというような夢を見ていたわけですよ。 それで私がいくつかこだわったのは、一つはあの大きなホールには 普通に座席を置けばあの1,200、1,300席置けるとこだった。 ところが音楽会というのは大体2時間とか2時間半あれば終わって 帰っちゃうのですけれども、学会なんて朝集まったらば夕方までやるわけですよね。 途中でトイレに行きたくなるとか、ちょっとした打合せで廊下出ようという時に あまり(前の席との隙間が)狭かったら自由に行き来出来ないじゃないですか。 だから前の席と後ろの席との間をうんと空けて、いちいち出入りする時に 「すいません、すいません」って言いながらじゃなくて、 自由に出入り出来るようにしたのです。 その結果として700席しか設置できなかったというような事があります。 聞き手:(かずさアカデミアパークに携わって)5年間ですけど、 改めて当時を振り返ってお話をしていただけますか。 中野:少し生意気な事を言わせていただきたいと思うのですけども、 仕事をする時には色々困難が付きまとうわけですね。 そういう時には、それを克服するためにはどうするかっていうのを考えるわけです。 そうすると、これでいった時の長所は何、短所は何っていう比較対象表みたいな、 さらに短所の克服策みたいなものも、その欄を設けてそこに書くようにする、 というようなことが必要なんじゃないかなって思っています。 それから何をやるにも短期的ではなく長期間、それからできたら 大きな夢を見るというか、そういうようなことでやるのは非常に良いことだと思う。 ただ、それの実現のためにはどうかっていうと、小さな工夫、小さな努力、 その積み重ねが非常に重要だと、この際強調しておきたいと思いますね。 聞き手:かずさは全く新しいもの、新しいトライでしたから大変だったと思います。 今日はありがとうございました。