千葉新産業三角構想の推進(伊藤 貞雄 氏) 伊藤 貞雄 氏 昭和39年 入庁 昭和63年 千葉県新産業三角構想推進室室長 平成9年~平成11年 企業庁長 聞き手 吉田雅一知事特別秘書 聞き手:「千葉新産業三角構想の推進」をテーマに、伊藤貞雄さんからお話を伺います。 千葉新産業三角構想は、幕張新都心構想、上総新研究開発都市構想、 成田国際空港都市構想、この3つの構想で形成するというプロジェクトです。 どのような背景で生まれたのか、まずはプロジェクトの位置づけについて、 お話をいただけたらと思います。 伊藤:今のお話ですけれども、三角構想、縮めて言うとそういうことになるんですけれども、 そういうことにはその前の歴史というのもあるんですね。 それは1期2期3期、いろんな時期の差はあるんですけれども、その埋め立て事業の鉄、 それから石油、石油化学、電力という産業の基礎的な産業を東京湾の臨海部にやり、 その埋め立ての事業の企業立地が終わるのが富津とそれから最後は 昭和55年のオリエンタルランドの開業になるんですね。 私どもは昭和55年の立地が見通される頃に、次は千葉県は何をすべきか、 何をしなくてはいけないのかということなんです。 内陸部に目を転じてみれば昭和42年の7月に成田空港の建設が決まりました。いろんな ことがあったことは皆さんご存じですけれども、それが昭和53年に開港になりました。 空港を、国際空港を持つということは、今は日本一の旅客数それから年間200万トンに 及ぶ航空貨物というと、全世界に航空路線を持っている素晴らしい大きな空港なんですね。  それを地域にどう産業として生かすか、とういうことが一つ。そして私共は千葉県として その臨海部の埋め立てが終わって昭和50年代から次の50年、30年を どうするかという議論が企画部を中心にいろんな議論が出てきたんですね。 そのなかに我々は世界の事、これからの千葉県の持っているポテンシャリティを どう広げていくかということで野村総研という日本で最高の調査機関に調査も お願いをいたしました。その中に出てきたいくつかが、 いまの千葉新産業三角構想に生きています。 最初に新産業という冠がついてます。これは千葉県は先ほど申し上げたように 臨海部の工業地帯というのは業種的には鉄鋼、石油、石油化学ということです。 ところがアメリカとか世界の動きというのはそういうものを作るだけではなくて、 情報をいわゆる産業、今はAIということが当たり前になりましたけど、 情報量、みなさんが携帯を持ち、パソコンを持ち、そういう大きな情報化時代が アメリカは来ていたんですね。 これをどうやって千葉県の中に取り入れるかということで、最後の埋め立てになった 幕張の二期開発地区に、すばらしい街づくりの住宅団地25,400人いますが、 それとともに新しい情報産業を誘致しようということを考えだしたんですね。 ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、 大きな都市には必ずコンベンションという施設があります。 そういうことを野村総研の研究所のレポートに出てきたんですね。 それから街づくりの一つのテクニック、方法として大学そして工業団地、街づくり、 こういう3つの要素がこれからの大きな都市圏、街づくりの中核になるファクターが必要。 ということで千葉県の姉妹都市がありますがウィンスコンシン州というのがあります。 そこの例をとって大学と工業団地、新しいニュータウンの位置関係が三角形の 関係になる。三角形というのは英語でいうとトライアングルということになるんですが、 その三角がお互いの相互に関連しながら街づくり、都市圏をつくっていく ということはわかりました。私どもも千葉県の大きな課題である人口が 東京、千葉県房総半島の北西部に偏っている。人口の受け入れのために 30万規模の千葉ニュータウンを開発したのが昭和40年初頭の頃です。 そしてもうひとつ海浜ニュータウンに25万人規模を同時にやって、 日本で一番住宅公団の団地が多いのは千葉県なんです。 もちろん住宅公団が初めて柏に住宅公団を始めたのもそうですけども、 それだけの人口を受け入れてきた。 その人口を受け入れてきてその人たちが将来働く場所をどうやって確保していくのか、 学校をどうやって整備していくのかという大きな問題だったんですね。 ですから北西部の人口増に対応する将来的な対策、成田空港周辺をどういう風に 都市圏化していくか、そして南の方は木更津以南のほうは山があり海があり、 人は少なくなってきている、だけど横断道路が作られて新しいネットワークができる。 そういう事を考えるとこの横断道路というのは大変に巨額な投資です。 その巨額な投資に対して千葉県として私どもはこれを地域の振興進展発展に 活かす必要がある。国のお金をたくさん使われるわけですから、千葉県としてそれを どうするのかということが国からも聞かれました。だから私どもはこれからの時代に 必要なものは日本の産業を新しくリードしていくのは研究開発というのは一番大事だと。 それを民間企業による研究開発がこれから非常に伸びるはずだと、伸ばさなきゃ いけないだろう、ということで研究開発都市、民間を中心とした研究開発都市を考える。 それを横断道路で生かしていくという事を考えて上総構想が出てきたんですね。 そういう事を総称してトライアングルと三角的な地域関係にあることもあり 新産業というのを頭にし、三角という地域的な事を意識しながら、千葉新産業三角構想 というのを昭和56、7年に考えたんですね。それは臨海事業というのが ある程度終わりが見えて来ていたからなんです。次の30年をどうしよう というところからその選択をして、これには千葉県だけでの知恵ではだめだと。 国の知恵、力も借りようということでまず考えたのは、戦術として組織を 作らなきゃいけない、ということで、千葉新産業三角構想推進室ということができたんです。 国からもそのリーダーをお願いをして幕張メッセの計画を推進する。それとともに県内に これだけのプロジェクトとか幕張の理解を求めなければ、県庁単独でできるものではない。 ということで当時の知事も含めて、経済界も含めて東南アジアのコンベンション施設、 シンガポールとか香港にもありますが、アメリカのコンベンション施設も視察をして、 現実に見てもらってこれがどういう産業のなかで活かされているのか、 どういう地域のメリットを生んでいるのかということを見てもらいました。 幕張メッセ自体が500メートルを超える大きなホールで1ホールあたりサッカー場 1面分の面積があります。それが550億円を超える規模の経費が掛かりました。 それを24か月で造るわけですけども、 それだけの県内外のいろんな方の理解それから協力、いちばんすごかったのは いろんな鉄道網とかいろんな道路とか、そういうもので県庁各部が 新しい千葉県のシンボルになるんだと、それを造るんだと。 これが一丸となりました。県内の大きな国道にはその印として 幕張メッセの方向というのが常に矢印ででるんです。 今、千葉新産業三角構想を振り返ると私はプロセスとしては慎重かつしっかりとしたステップを 進んできたように思いますけども、これはここで終わる事が目的ではなくて次の時代に どうつながるか、地域開発とか地域産業とか産業振興というものは、 常にその中で次の時代にどうつながるか。そして新しい時代の感覚を考えながら その空間を伸ばしていく。今、千葉新産業三角構想のいろんな事業のステップを参考に 国では未来投資法ということで日本全国に新しい法律と産業振興の仕掛けを作っています。 それは地域の持っている資源、英語で言うとリソースといいますけども、 そういう地域の持っているいろんな資源をコアにそれを活かして広げる、 そのための官民のいろんな投資を助成していく仕掛けの法律、 未来投資法ということで、今までのように大きければいいということではなくて、 小さくても持っているその貴重な資源という事で それを進めるように国全体がそうなっています。 若い人が多い千葉県ですから、これからの世界に通用する人材が育てられるように、 まだまだその教育が私は足りないと思います。 千葉県には高等技術専門学校というのは1校です。 もっともっとそういう人材を育てる基盤というものが私は必要だと思いますね。 聞き手:伊藤さんご自身が提案された上総構想、あるいは幕張メッセ、 これは情報の産業を集積していますし、コンベンションの話もよくわかりました。 大変貴重なお言葉をいただきました。ありがとうございます。